HISTORICAL PERSON · 827年没

敬宗 (唐)

唐の第16代皇帝。ポロや角力などの遊興にふけり朝政を顧みず、寵愛した力士に絡む宦官に暗殺された。

生涯
827年没
死亡地
斉 (黄巣)(陝西省 / 長安)
出生地
金(長安)
出典
世界地図
斉 (黄巣)(陝西省)

伝記

敬宗は、唐朝の第16代皇帝である。個人名は李湛、穆宗の長男で、のちの文宗と武宗の兄にあたる。在位は824年から827年までと短く、宦官が禁軍の神策軍を握って力を振るう時代のなかで、政治に関心を示さず遊興に傾いた皇帝として知られる。809年7月22日、のちの穆宗となる遂王李宥の長男として生まれた。当時の皇帝は祖父の憲宗で、母は李宥の側室の王氏であり、生まれたのは東宮の脇殿だったという。821年には父がすでに皇帝(穆宗)となっており、多くの弟や息子を親王に封じた際に、李湛は景王とされた。このとき12歳であった。823年の新年のころ、穆宗がポロの試合を観ていると、宦官が馬から落ちる事故が起き、その衝撃で穆宗は重い中風を患って起き上がれなくなった。裴度や李逢吉ら宰相をはじめ多くの官僚が皇太子を立てるよう求め、穆宗は初め答えなかったが、やがて李湛を皇太子とした。

824年の春、いったん回復していた穆宗は再び病に伏し、病の間は李湛に摂政をさせるよう命じた。宦官たちは穆宗の母の郭太后に摂政を宣言するよう求めたが、則天武后のようにはなりたくないとして退けたとされる。郭太后は宰相による補佐を命じ、前漢以来の外戚政治に終止符が打たれたという。その夜に穆宗が没し、李湛が即位して敬宗となった。即位時の年齢は15歳とも16歳ともされる。敬宗は祖母の郭太后を太皇太后とし、母の王氏を皇太后とした。

治世の初めから、敬宗は浪費と怠惰で知られた。即位から3日目と5日目のあいだに、多くの宦官へ官服や彩絹、宝物を何度も与えた。ポロや宴、遊戯、音楽に多くの時間を費やし、楽人に豪華な褒美を与えた。朝議にもしばしば大幅に遅れ、官僚を何時間も待たせた。諫官の李渤と劉栖楚が改めるよう上書すると、二人に褒美を与え、のちに劉を昇進させたが、忠告を心に留めたかどうかははっきりしない。また龍州の刺史が、牛心山が唐の天の加護と神秘的につながっているとして山の修復を上奏すると、これを認めて数万人を徴発した。工事は困難で危険を伴い、東川の力が消耗したと伝えられる。

即位から3か月ほど後には、都の長安で異例の事件が起きた。占い師の蘇玄明と染織の職人の張韶が親しく、蘇は張に、皇帝の座に就いて自分と食事をする未来が見えると告げた。敬宗が狩りや遊びにふけって宮中の警備が手薄になりがちだと蘇が指摘すると、張は仲間の職人や市井のならず者を集め、敬宗が清思殿でポロをしている日に宮中を襲った。敬宗は慌てて宮殿を逃れ、宦官の馬存亮が率いる左神策軍の陣営に入った。馬は敬宗を守り、部下の康藝全に兵をつけて宮中の確保に向かわせた。そのころ張は玉座に座って蘇と食事をし、予言どおりになったが、自らの招いた災いに気づいて逃げようとした。しかし康と右神策軍の将の尚国忠が到着し、張と蘇、その多くの従者を討ち取った。

敬宗が用いた人材は、宦官の王守澄と結託した李逢吉であった。李は皇帝が幼いことを利用して、政敵を一掃したとされる。粛清された官僚が無実だったことを穆宗の手文庫から知った敬宗は、朝政から距離を置いて、ポロや角力、夜猟などに遊んだ。角力を好んだため臣下から多くの力士が献上されたが、力士は寵愛を笠に宦官たちを迫害した。これに不満を抱いた宦官の劉克明らによって、敬宗は寝所で暗殺された。時期は827年1月のことで、享年は19とも17ともされる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物