伝記
アブー・アル=アターヒヤは、アッバース朝期に活躍した詩人である。生年は747年とも748年ともいわれ、没年は826年とも828年ともされる。アブー・ヌワースやバッシャール・イブン・ブルドと並び称される、初期イスラーム時代を代表するアラブ詩人の一人で、禁欲を説く詩を数多く作ったムワッラド(非アラブ系の血を引く)詩人でもあった。
アブー・アル=アターヒヤはクンヤ形式の通称で、直訳すると「アル=アターヒヤの父」、つまり「阿呆の父」にあたる。アターヒヤは「阿呆、馬鹿、低能」を意味する語である。由来には諸説あり、おどけた気ままな性質だったためとも、カリフ、アル=マフディーのもとにいた女奴隷に夢中になった様子からともいい、カリフに衒学的な人間だと言われたからだともされる。本名はイスマーイール・イブン・アル=カースィム・イブン・スワイド・アル=アナズィーで、アナザ族の出身とする説と、同部族のマウラー(被護民)の家柄とする説がある。
生地は、シリア砂漠の中のオアシスの町の一つとも、カルバラーのアイン・アル=タムルともいわれる。父は吸角を施す職人で、本人は壺を売って暮らしており、生活はたいへん貧しかった。若い時期はクーファで過ごし、陶器を売っていたとき、詩人たちが競い合うために集まるのを見て、自分もその競いに加わったという。のちにはタバリスターンの総督ウマル・イブン・アル=アラーを称える詩を作った。名声が高まるにつれてアッバース朝の宮廷があるバグダードに引き寄せられ、とりわけマフディーの側女ウトバに捧げた詩で知られるようになった。しかしその恋は報われず、マフディーも、その後のハールーン・アッ=ラシードも取りなしたが実らなかった。あるとき、カリフの機嫌を損ねて、短期間投獄されたこともある。それでも天才詩人としての評判は広まり、マフディーの目に止まって、またたくまに出世したと伝えられる。
逸話も残る。第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードに招かれたとき、「思いのままに、すこやかに、高き宮居の影に君、その日その日を生きたまえ」と始まる詩を詠み、やがて息も微かにあえぐ時が来れば、この世の快楽はみな夢と悟るだろうと歌った。これを聞いたハールーンは涙を流して感動したという。ハールーンの死後も、その正妃ズバイダから毎年、金貨100ディナールと銀貨100ディルハムを贈られて、手厚く保護された。没したのは、カリフ、アル=マムーンの治世の828年とされる。文法学者や宮廷楽士と同じ日に亡くなったとも伝えられ、墓はイーサー運河のほとり、油売りの橋の向かいにあった。
作風は平易な言葉の中に人生の様々な機微を詠み、清貧を称えるもので、当時ほとんど誰もが用いた技巧的な表現を避けたことで注目される。砂漠の古い詩は都市の暮らしにそぐわないのに模倣され続けていたが、彼はいち早く古い形式であるカシーダを離れた一人であり、多くの韻律を自在に使いこなした。アラブ最初期の哲学的詩人の一人ともみなされ、日常の観察や道徳を詠む詩が多く、ときに悲観的であったため、異端の疑いを強く受けた。一時は宗教上の理由から詩作を断ったこともある。詩集はイブン・アビー・ターヒル・ターイフールが編み、ハールーン・イブン・アリー・アル=ムナッジムの未完の詩人伝承集にも、アブー・ヌワースらと並んで収められた。子や孫にも詩人が出た。
同じ年に亡くなった人物
- ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (828年没)
- イブン・ヒシャーム (828年没)
- アサド・イブン・アル=フラート (828年)
- イドリース2世 (828年没)
同じ地域に関係する人物
- Bint al-Huda (1980年没)
- アービド・ハーミド・マフムード (2012年没)
- カーヒル (アッバース朝カリフ) (950年没)
- ジャアファル (803年没)
- アミーン (813年没)