伝記
アインハルトは、カロリング朝フランク王国の廷臣、聖職者、建築家、歴史家である。カール大帝の側近であり、『カール大帝伝』の著者として知られ、カロリング・ルネサンスの主要な文筆家の一人に数えられる。840年3月14日に隠遁の地で没した。
生年は不詳だが、770年頃に、フランク王国東部のマイン川流域マインガウの貴族の家に生まれたと推察されている。フルダ修道院長の同時代の文章には、両親の名がアインハルトとエンギルフリトで、修道院の恩人だったと記される。幼いうちに教育を受けるためフルダ修道院に預けられ、20歳頃には書記を務めていた。才能を修道院長に認められ、教育を仕上げるためにカール大帝の宮廷へ送られた。そこでまず碩学アルクインの弟子となり、796年か797年にはカールの側近となった。背丈は低かったが、豊かな学識と誠実な人柄のために王や側近の信頼が厚く、いくつかの司教座を与えられたとされる。アルクインは小柄な彼を、香り高いナルドの小さな草にたとえ、「小さなナルドゥルス」と呼んで詩を贈った。アルクインがトゥールに移ると、宮廷学校の中心人物となった。
宮廷では建築でも指導的な役割を果たし、アーヘンの宮殿や宮廷礼拝堂、インゲルハイムの宮殿など、大帝が望んだ大建築に関わる任務を受けた。外交の使者も務め、皇帝から教皇への使いの役もこなした。教皇レオ3世のもとへは、帝国を3人の息子に分ける計画を伝えに赴いたという。大帝の遺言書の作成にも関わったと考えられている。カールの死後は、その子ルートヴィヒ1世にも仕えて王の書簡を作成し、王子ロタール(のちのロタール1世)の教育係にもなった。ルートヴィヒは報いとして、故郷の地にあるミヒェルシュタットとミュールハイムの所領を与え、サン・ヴァンドリーユ(816年から823年)、ヘント(ガン)のサン・バヴォン、マーストリヒトのサン・セルヴェなどの俗人修道院長職も任せた。815年に王領をもらい受けた彼は、晩年をそこで過ごした。
ミュールハイムには教会を建て、ディオクレティアヌス帝の治世に殉教した聖マルケリヌスとペトルスの聖遺物を迎えた。その経緯は830年の『聖マルケリヌスとペトルスの移葬と奇蹟』に詳しく記されている。のちにこの地にゼーリゲンシュタット修道院を創建した。ミヒェルシュタットのアインハルトバシリカの遺構も彼の建築である。妻はヴォルムス司教ベルンハルトの姉妹インマで、836年に先立たれた。ルートヴィヒ1世の息子たちが父に反乱を起こすのを見て世俗の生活から身を引き、『カール大帝伝』を書いたと考えられている。書簡集のほか『十字架の崇敬について』『フランキア王国年代記』も伝わる。
『カール大帝伝』はスエトニウスの『皇帝伝』の伝統にならって書かれ、カールの人生と性格を知る直接の情報源として、この時代の重要な史料である。ただしカールを賞賛する目的で書かれ、政治的な偏りがあることも理解されている。たとえばカールの戴冠について、事前に知っていたらサン・ピエトロ大聖堂のミサに出なかっただろうという言葉を伝えるが、現在の歴史学はそれを事実とは見ていない。娘たちの引き起こした醜聞は注意深く避けて書かなかった。カールの出生については、公表されておらず知る者もなく書くのも不適切だとして沈黙しており、この沈黙が出生をめぐる議論を呼んだ。ドイツの伝説では、若いアインハルトがカールの娘エンマと密かに愛し合い、雪の朝に彼女が彼を背負って送り届け、雪に残る足跡を見た大帝は驚き苦しんだが、のちに二人を赦して結婚させたと語られる。
同じ年に亡くなった人物
- エウフロシネ (840年没)
- 淳和天皇 (840年没)
- アブー・タンマーム (840年代没)
- 文宗 (唐) (840年没)
- Wigmund of Mercia (840年)
同じ地域に関係する人物
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- ルーカス・ファン・ファルケンボルフ (1607年没)
- ヨアヒム・フェスト (2006年没)
- エリーザベト・フォン・プロイセン (1815-1885) (1885年没)
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