伝記
文宗は、唐の第17代皇帝である。兄の敬宗、弟の武宗と三人が続けて帝位に就いたのは、中国史では珍しい例とされる。809年の末、祖父の憲宗の時代に生まれ、840年に没した。穆宗の次男で、敬宗の異母弟にあたり、初めの名は涵、のちに昂と改めた。父の李宥(のちの穆宗)は、憲宗の皇太子の時代に妃であった郭氏の子であったが、兄の李寧が皇太子に立てられていたため、李寧の死後の812年にようやく皇太子となった。涵は李宥の次男で、母は蕭氏の側室である。820年に憲宗が没して穆宗が即位すると、821年に多くの皇子が親王に封じられ、涵は江王となった。
824年に穆宗が没して兄の敬宗が即位したが、826年末から827年にかけて、敬宗は宦官の劉克明らに殺害された。劉克明は当初、穆宗の弟の絳王李悟を皇帝に立てようとしたが、宦官の王守澄・楊承和、神策軍の指揮官の魏従簡・梁守謙らがこれに対抗して兵を動かし、一味を討った。李悟もこの騒ぎで殺された。王守澄らは、祖母の太皇太后郭氏の命令という形で江王を新帝に立て、これが文宗である。名は昂と改められた。
即位当初の文宗は、父や兄の浪費を見て倹約に努め、政務に励んで官僚としばしば会ったといわれ、人々は太平の世が来ると期待した。ただ、謙虚で意見をよく聞く反面、決断力に欠け、宰相の提案にいったん同意しながら考えを変えることが多かったとも伝えられる。宰相の韋処厚が反対して辞任を申し出たときも、これを受け入れなかった。母の蕭氏を皇太后として敬い、祖母の郭太皇太后や敬宗の母の王太后にも孝養を尽くしたという。軍事面では、横海の節度使であった李全略の死後、その子の李同捷が許可なく地位を継いだ。朝廷は李同捷を兗海の節度使に移そうとしたが、李同捷は成徳の王廷湊の支援を得て抵抗した。文宗は周辺の諸道の軍を動員して攻めさせたが、すぐには成果が上がらず、829年になって将軍の李祐が李同捷を破った。その後、魏博の節度使史憲誠は次の標的になることを恐れて管轄の返上を申し出たが、史憲誠は移任の前に兵の反乱で殺され、擁立された何進滔が朝廷の派遣した李聴を破った。
朝廷の実権は王守澄らが握り、文宗は傀儡に近い存在であった。そこで831年に宰相の宋申錫とともに宦官の討滅を謀ったが失敗した。835年には李訓らとふたたび計画を立て、王守澄を自殺に追い込んだものの、宦官を大量に粛清する計画が事前に露見して李訓らは殺され、文宗も捕らえられて幽閉された。これが甘露の変である。文宗はすでに実子の李永と李宗倹を相次いで失っており、亡兄敬宗の末子の李成美を皇太子としていたが、この事件の際に宦官の仇士良らによって李成美は殺され、異母弟の李瀍が皇太子に立てられた。
838年には藤原常嗣が遣唐大使として揚州に上陸し、12月に長安へ着いて、839年1月13日、大明宮の麟徳殿で文宗に拝謁した。同行した円仁が『入唐求法巡礼行記』に詳しく記している。これが実際に使命を果たした最後の遣唐使となった。同じ839年、風痺が重くなった文宗は謁見を切り上げ、学士の周徳升に自分を古の天子の誰に近いと思うかと問い、堯舜の君だと答えられた。さらに周の赧王や後漢の献帝をどう思うかと尋ね、涙ながらに、彼らは諸侯に外から制せられたが、自分は家奴に内から制せられており、彼らにも及ばないと述べた。周徳升は地に伏して泣き、同情したという。文宗は840年、幽閉されたまま32歳で崩御した。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・タンマーム (840年代没)
- Wigmund of Mercia (840年)
- リヨンのアゴバール (840年)
- ルートヴィヒ1世 (フランク王) (840年没)
- 淳和天皇 (840年没)