伝記
ルートヴィヒ1世は、フランク王国の国王で、のちに皇帝となった人物である。カール大帝と王妃ヒルデガルトの三男として、778年、父がスペインへ遠征している間に、ポワティエ近郊とされるカッシノギルムの王領で生まれた。「敬虔王」と呼ばれ、フランス語ではルイ1世とも数えられる。大帝の死後も生き残った、ただ一人の嫡出の男子であり、この巡り合わせが彼を帝国全体の後継者にした。
生後まもない781年、幼くしてアクィタニア王に立てられ、摂政と宮廷を伴って現地へ送られた。大帝は、子らをそれぞれの王国の風習の中で育てる方針をとった。785年にはパーダーボルンの王の会議へバスク風の衣装で出向いたと伝わる。この地域はイスラム勢力との境にあたり、ルートヴィヒはスペイン辺境の防衛を担った。ピレネーへ軍を率い、800年から801年の冬にかけて二年ほどの包囲の末、バルセロナを降伏させたとされる。兄のイタリア王ピピンが810年に、ネウストリア王カールが811年に没すると、813年に父の共同皇帝とされ、翌814年に大帝が崩御すると、アーヘンへ急いで単独の皇帝として即位した。即位当初に鋳造した貨幣には、父の肖像を模した図柄を用いている。
信仰心は極めて厚かったが、政治では優柔不断だったと伝わる。大帝が集めさせた古い歌物語を、キリスト教的でないとして焼き捨て、華美を嫌って宮廷の姉妹たちを修道院へ入れ、父の従兄弟にあたる顧問らを退けて、教会改革を進める修道院長ベネディクトを顧問に据えた。817年にアーヘンの王宮の一部が崩れると、これを死の訪れを告げる神の意志と受け取り、帝国計画令を出した。その内容は、長男ロタールを共同皇帝、次男ピピンをアクィタニア王、三男ルートヴィヒをバイエルン王とするものである。分割相続の慣習と帝国の統一を両立させる妥協策であったが、亡き兄の子ベルンハルトは無視され、反乱を起こして818年に処刑された。皇帝はこの扱いを悔い、公の場で罪を償ったという。
819年にヴェルフ家のユーディトと再婚し、823年に末子シャルルが生まれると、この子にも領地を分け与えようとして、息子たちの反発を招いた。830年にはロタールを中心にクーデターが起き、皇帝は一時廃位された。次男と三男の支持で復権し、831年に新たな分割案を定めたが、833年には再び対立してロタールに捕らえられ、翌834年に解放されて位に戻った。838年に次男ピピンが没し、839年のヴォルムスで領土の大半をロタールとシャルルに分けると決めると、三男ルートヴィヒが反乱を起こした。皇帝は鎮圧に向かう途中の840年6月20日、没した。没地は、フランクフルト近くとも、インゲルハイムとも記される。
死後、兄弟の争いは武力衝突に発展し、王国分裂の原因となった。三男の国は東フランク王国となって、のちの神聖ローマ帝国につながり、シャルルの国は西フランク王国となって、のちのフランス王国につながった。ロタールの中部フランク王国は、彼の死後にさらに分割された。後世の評価は、父大帝と比べて低いことが多いが、直面した課題の種類は父と異なっていたとも指摘される。
同じ年に亡くなった人物
- 淳和天皇 (840年没)
- エウフロシネ (840年没)
- アブー・タンマーム (840年代没)
- アインハルト (840年没)
- Wigmund of Mercia (840年)
同じ地域に関係する人物
- ピルミニウス (753年没)
- アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン (1966年没)
- ラッベーヌー・ゲルショーム (1040年没)
- ヨハン・カジミール (プファルツ=ジンメルン公) (1592年没)
- ハインリヒ・マルクス (1838年没)