伝記
李翺は、772年に生まれ、841年に没したとされる唐の文人・思想家である。字は習之。汴州陳留県の出身とされ、本貫は隴西郡狄道県(現在の甘粛省定西市臨洮県)である。出身地については、現在の甘粛省天水の生まれとも、河北の趙の出身ともいわれる。西涼の武昭王李暠の曾孫で、北魏の尚書左僕射であった李沖の十世の孫にあたるという。
798年(貞元14年)に進士に及第し、官僚として歩み始めて、長安の史館に勤めた。元和年間の初めには国子博士に任じられ、820年(元和15年)には史館修撰となって考功員外郎を兼ねた。809年には南方の諸州に赴くことになり、身重の妻を連れて洛陽から広州まで9か月をかけて旅した。その道筋は現在の河南・安徽・江蘇・浙江・江西・広東の各省に及んでいる。この旅の記録が『来南録』で、中世の中国南部の様子を詳しく描いており、最も早い日記の形式のひとつとみなされている。
その後、朗州刺史、さらに廬州刺史へと左遷された。826年(大和元年)に文宗が即位すると入朝して諫議大夫となり、まもなく知制誥に復した。833年(大和7年)には潭州刺史となり、835年(大和9年)からは湖南観察使、検校戸部尚書、襄州刺史を経て山南東道節度使を務めた。そして襄州に赴任している間に没した。諡は文公である。没年については議論があり、『旧唐書』は841年とするが、清代の歴史家は836年とすべきだと論じている。
李翺は韓愈の高弟であり、士を好むところが師に似ていた。人に一つでも善いところや才能があれば必ず賞賛し、賢者を推挙する機会を常に求めていたという。若い頃は皇甫湜とともに韓愈の文章に学び、皇甫湜が韓愈の奇抜な面を表すのに対し、李翺はその平易な面を代表するといわれた。また、韓愈の生前に墓碑銘を委嘱されていた。
思想の面では、「人性本善」という発想は李翺の『復性書』に始まると朱伯崑は指摘している。武内義雄によれば、李翺は人の性は善であると考えたが、情が起こるときに悪が伴うのであり、万物が感覚器官に接しても情を起こさないようにすることが「復性」であるとした。武内は韓愈と李翺を宋学の先駆とみている。李翺は韓愈から排仏の主張を受け継いだが、自身の中では仏教と道教の思想を融合させ、むしろ禅宗の達観に近づいた。薬山惟儼禅師に贈った詩もあるが、難解で観念的な作品である。仏教が投げかけた問いに対して自らの伝統の中に答えを探し、「性に復る」ことが仏教の悟りに当たる儒教の考え方だと示したため、のちの新儒教に至る道を開いた人物とされる。後世の学者は、唐から宋にかけての十大学派の一つの創始者とみなした。著作は『李文公文集』にまとめられ、少数の詩は『全唐詩』にも見える。母方の孫にあたる二人は、いずれも僖宗の時代に宰相を務めた。
同じ年に亡くなった人物
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