HISTORICAL PERSON · 208年没

劉表

後漢末に荊州に割拠した政治家・儒学者。荊州北部を支配下に置き、黄祖に孫堅を討たせて荊州を守った。劉備を受け入れて曹操への備えとし、学問を奨励した。208年に病死し、子の劉琮は曹操に降伏した。

生涯
208年没
死亡地
中華人民共和国(湖北省 / 襄陽市)
出生地
中華人民共和国(魚台県)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

劉表は、中国後漢末期の政治家・儒学者である。字は景升。漢安元年(142年)に生まれ、建安13年(208年)8月に没した。兗州山陽郡高平県の人で、前漢の景帝の子の魯恭王劉余の系統に連なる漢の皇族の末裔とされる。後漢の統制力が衰えた後、荊州に割拠した。身の丈は8尺余りとされ、威厳のある風貌だったという。

若いころは太学で儒学を学んで高い声望を得た。党錮の禁では清流派の党人の中で「八及」と称されたが、熹平5年(176年)、霊帝の追及を受けた張倹の逃亡を助けたため、自らも追われる身となった。黄巾の乱で党錮の禁が解かれた中平元年(184年)に大将軍の何進に招かれ、のち北軍中候に転じた。霊帝の死後、詔勅で荊州刺史王叡の後任となり任地に向かったが、長江南岸には土豪が割拠していたため、州治の漢寿へは行かず北部の宜城に入った。蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏な勢力を鎮め、荊州北部を支配下に収め、のちに州治を襄陽に移した。

初平元年(190年)に反董卓の義兵が各地で挙がると、劉表もこれに加わった。初平3年(192年)、袁術の意を受けた孫堅が荊州に侵入すると、黄祖に防がせ、袁紹と同盟して対抗した。黄祖は苦戦の末に孫堅を討ち取り、荊州を守り抜いた。初平4年(193年)には朝廷から鎮南将軍・荊州牧に任じられ、成武侯に封じられた。食料不足から荊州の穣城を攻めた張済が流れ矢で死ぬと、劉表は、張済は困窮して来たのに自分が礼を尽くさなかったから戦いになったと述べ、旧張済軍を受け入れた。この言葉を聞いた旧張済軍は劉表に服従した。のち袁紹と曹操が対立すると袁紹に与し、張繡と結んで曹操と戦った。建安3年(198年)に曹操が穣県の張繡を囲むと援軍を送って背後を脅かし、挟撃して破ったが、敗走する曹操を追ううちに伏兵にかかり、両軍とも敗れた。

建安5年(200年)の官渡の戦いでは袁紹から救援を求められたが、長沙太守張羨が叛いたため自ら討伐に出て、援軍を送らなかった。韓嵩・劉先・蒯越らは曹操に味方するよう進言したが、劉表は聞き入れなかった。反乱を鎮めて長江南岸を勢力圏に収めた。建安6年(201年)に劉備が身を寄せてくると、これを受け入れて新野に駐屯させ、曹操への備えとした。建安8年(203年)には劉備を博望に派遣し、夏侯惇・于禁らの軍を退けた。建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征した際には、留守を狙うよう劉備が進言したが、劉表は退けて動かなかった。劉表は政治に長け、戦乱を避けた人々が逃れてきたこともあって、荊州は急速に発展した。学問を奨励して学校を開き、経典の収集や注解書の著述を行わせた。宋忠・司馬徽・邯鄲淳・王粲らの学者や知識人が集まり、後世に荊州学派・襄陽学派と呼ばれた。左伝学者の潁容は、門徒やその家族を含む千人もの集団を率いて身を寄せたという。彼らの成果は魏・晋に引き継がれ、建安文学などの新しい文化を生んだ。劉表の死と劉琮の降伏により、これらの知識人は洛陽に戻ったり各地へ散った。

建安13年(208年)、曹操が荊州へ侵攻を始め、劉表はその直前に病死した。享年67。庶子の劉琮が跡を継いだが、州を挙げて曹操に降伏し、劉表の兵は曹操に吸収されて文聘が率いることとなった。長男の劉琦は劉備に荊州牧として擁立されたが、翌年に死去した。陳寿は、外見は寛大でも内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けたと評し、長子を廃して庶子を立て、死後に国を失ったのも不幸とはいえないと述べている。

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