HISTORICAL PERSON · 228年没

馬謖

蜀漢の武将。諸葛亮に才を愛され南征では懐柔策を献じて成功させたが、第一次北伐で山上布陣を強行し街亭の戦いで大敗、責任を問われ処刑された。

生涯
228年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(湖北省 / 宜城市)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

馬謖は、後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の武将である。字は幼常、190年に生まれ、228年に没した。荊州襄陽郡宜城県の出身で、襄陽の名家であった「馬氏五常」の五男(末子)にあたる。兄に馬良がおり、五人の字にはいずれも「常」の字が入っていたため、この名で呼ばれた。兄弟の中では馬良が最も才に優れるとされた。馬謖は身の丈が八尺ほど、社交的で友を作るのがうまかったともいわれる。

劉備が荊州を支配するようになると、兄の馬良とともに従事に取り立てられた。劉備の入蜀にも随行し、益州平定の後は綿竹・成都の県令、さらに越巂太守を歴任した。並外れた才能を持ち、軍略を論じることを好んで、諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信用せず、白帝城で臨終を迎えた際にも、諸葛亮に「馬謖は頭はいいが実行力がないため、軍隊の指揮は任せてはならない」と厳しく念を押したという。それでも諸葛亮は才器の人に過ぎた馬謖を愛し、劉備の死後に参軍(幕僚)に任じて、昼夜親しく語り合った。

建興2年(224年)春、建寧郡の豪族の雍闓らが西南夷の有力者の孟獲を誘って蜀に背いた。諸葛亮が「数年にわたって共に謀を考えてきた。いま再び良い計を授けてほしい」と求めると、馬謖は答えた。南中は遠く険しいことを頼みに久しく服従せず、今日破っても明日また背くだろう。しかも公が国力を傾けて北伐に向かい、官軍が弱ったと知れば反逆はいっそう早まる。反乱者を残らず滅ぼして後の禍を除こうとすれば仁徳に外れ、急には成し遂げられない。用兵は心を攻めるのを上策、城を攻めるのを下策とし、心を屈する戦いが上策、兵で戦うのは下策である。どうか寛容さで彼らを心から従わせてほしい、と。諸葛亮はこの言葉を全面的に受け入れ、それが七縦七擒などの作戦につながって、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与した。

建興6年(228年)春3月、諸葛亮は第一次北伐にあたり、周囲の反対を押し切って馬謖を先鋒に抜擢し、要所である街亭の守備を命じた。馬謖は街亭付近の山の頂に陣を敷き、副将の王平は山を降りるよう再三進言したが、聞き入れなかった。その結果、張郃に水源を断たれて山頂で孤立し、蜀軍は惨敗した。同年5月、諸葛亮は馬謖を獄に下した。「蜀書」の馬良伝は獄中で亡くなったと記し、王平伝は処刑されたとする。享年39。諸葛亮は涙を流しながら処刑を命じたとされ、これが「泣いて馬謖を斬る」の故事になった。副将の李盛や部下の張休も敗戦の責任を問われて処刑された。李邈は、秦が敗軍の将の孟明を赦して西戎を制し、楚が子玉を誅殺して二代にわたり振るわなかった例を挙げて諸葛亮を諫めたが、機嫌を損ねて蜀へ帰ったという。馬謖の死については、諸葛亮伝や王平伝が処刑と記す一方、馬謖伝の「獄に下されて物故す」は獄死を指すと解釈する見方もあり、向朗伝には、馬謖が逃亡したと記されている。

馬謖は処刑の前、諸葛亮に宛てて、「明公は私を我が子のように、私も明公を父のように思ってきました。古代の舜が鯀を誅しながらその子の禹を取り立てたように、生前の交遊を大切にしてくださるなら、死んで黄泉にあっても心残りはありません」と書き残した。遺児は罰せられず、以前と同様に遇されたという。『三国志』の撰者である陳寿の父は馬謖の参軍で、馬謖に連座して髠刑に処されたと伝わる。襄陽記の著者の習鑿歯は、諸葛亮が有用な人材を失ったと批判している。

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