伝記
センメルヴェイス・イグナーツは、1818年7月1日、ブダ近郊のタバーン(現在はブダペストの一部)で生まれたドイツ系ハンガリー人の医師である。手洗いなどの消毒法の先駆者として知られ、「母親たちの救い主」とも呼ばれる。父ヨージェフはキスマルトン出身のドイツ人で、1806年にブダで店を開く権利を得て、スパイスや日用品の卸売りを始め、商売は成功した。母は車大工の娘テレーズで、イグナーツはこの夫婦の10人の子の5番目であった。1837年にウィーン大学で法学を学び始めたが、翌年に医学へ転向し、その理由は分かっていない。1844年に博士号をとったものの、内科の職を得られなかったため産科を専門にした。
1844年7月にウィーン産科病院の研修医の助手となり、1846年7月にはウィーン総合病院第一産院の教授の助手に就いた。毎朝患者を検査し、難産の指揮をとり、学生に教えるなど、現在のチーフレジデントに近い地位であった。この病院には産科が二つあり、第一産科では産婦の10パーセントが産褥熱などで死亡していたのに対し、第二産科の死亡率は4パーセントに満たなかった。第一産科は医学生の教育のための医院、第二産科は助産婦だけが勤務する医院で、妊婦たちは評判の悪い第一産科を避けたがった。センメルヴェイスは、街中で出産した女性の方が産褥熱にかかる例が少ないという事実に困惑し、この差が生命を無価値であるかのように思わせて自分を惨めにしたと記した。過密や気候の違いを除外していく中で、大きな進展が1847年に起きた。友人でもある同僚が、産褥熱で死亡した患者の解剖を学生に指導している際にメスで指を傷つけ、産褥熱に似た症状を発して死去したのである。センメルヴェイスはそこに、遺体の汚染と産褥熱の関係を見いだした。
そして、解剖室から患者に「手についた微粒子」が移されているのだと結論した。死亡率の低い第二産科の見習い助産師が解剖に参加していないことも、この考えを裏付けた。当時のウィーンでは細菌の概念が受け入れられていなかったため、未知の「死体粒子」が産褥熱を起こすのだと考え、解剖と診察の間にさらし粉(次亜塩素酸カルシウム)で手を洗うという消毒法を提示した。1847年4月に18.3パーセントだった第一産科の死亡率は、5月半ばに手洗い消毒が導入されると、6月に2.2パーセント、7月に1.2パーセント、8月に1.9パーセントと劇的に下がった。翌年には月間死亡率0パーセントを2度達成している。
しかし「清潔さ」が産褥熱を撲滅する唯一の鍵だという彼の考えは、当時としては極めて急進的で、多くの医師に無視されたり嘲笑されたりした。四体液説が根強く残り、手が不潔だと示唆される紳士を自認する医師には受け入れがたかったうえ、センメルヴェイス自身も十分な科学的説明を与えられなかった。彼は政治的な理由で病院を追われ、ウィーンの医学界からも去って故郷のブダペストに帰らざるを得なかった。冷淡な反応に憤慨し、主要な産科医たちに、無責任な人殺しだと非難する手紙を送ったという。1865年、神経衰弱に陥り、妻を含む周囲の人々の手で精神科病棟に入れられた。そのわずか14日後、衛兵から暴力を受けた傷がもとで、47歳で死去した。死後、パスツールが細菌論を、リスターが消毒法を確立したことで、彼の理論は認められ、現在では殺菌消毒法の先駆者と評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・ウィルクス・ブース (1865年没)
- リチャード・コブデン (1865年没)
- ヨハン・フランツ・エンケ (1865年没)
- アンドニオス・クリエジス (1865年没)
- ウィリアム・ヘンリー・スミス (1865年没)
同じ地域に関係する人物
- マクシミリアン・ヴィルヘルム・フォン・ハノーファー (1726年没)
- ペーター・ペルシディス (2009年没)
- アドルフ・ロース (1933年没)
- Max Beier (1979年没)
- アドルフ・ヨーゼフ・ランツ (1954年没)