伝記
仁明天皇(にんみょうてんのう)は、日本の第54代天皇である。諱は正良(まさら)。弘仁元年9月24日、西暦では810年10月25日の生まれとされ、在位は天長10年(833年)から嘉祥3年(850年)までであった。嵯峨天皇の第二皇子で、母は橘清友の娘の橘嘉智子(檀林皇后)である。平安京への遷都後に生まれた最初の天皇であり、同父母の妹の正子内親王(淳和天皇の皇后)は同年の生まれであることから双子の姉と推測されるが、双子と明言した史料はなく、内親王の誕生を809年とする説もある。生年月日は、後の史料に、真言宗が承和2年(835年)に天皇から年分度者3名を賜り、天皇の誕生日に金剛峯寺で試験を行ったとあることから判明する。
天長10年2月28日、叔父の淳和天皇の譲位を受けて即位した。当初は淳和天皇の皇子の恒貞親王が皇嗣に立てられたが、承和9年(842年)の承和の変で恒貞は廃され、かわって仁明天皇の第一皇子の道康親王(のちの文徳天皇)が立太子した。これには、自分の息子に皇位を継がせたい天皇の意思と、道康親王の伯父にあたる藤原良房の陰謀があったといわれる。江戸時代の儒学者の頼山陽は、恒貞親王がたびたび皇太子の辞退を申し入れたのに受け付けず、事件にかこつけて廃して実子を立てたことを厳しく非難した。仁明天皇の伝記を書いた遠藤慶太も、承和の変を皇太子変更をねらった政変とみて天皇の関与と責任を重く見ており、「良房の陰謀」とする説は政変の意義を小さく見るものだとしている。
承和10年(843年)には、文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂の一族を流罪に処した。遠因については諸説あり、承和の変の影響とも、貿易の利権を独占したい藤原北家が、同じく貿易にかかわる宮田麻呂を排除したともいわれる。承和12年(845年)には、更衣で子の貞登(当時は源登)をもうけた三国町と、女御の藤原貞子の弟で幼少期からの側近だった藤原有貞との密通を疑い、有貞を地方官に左遷した。后妃は多く、皇子女は24人を数えるという。女御の藤原順子との間に道康親王が、女御の藤原沢子との間に宗康親王、時康親王(のちの光孝天皇)、人康親王が生まれた。
この時代、弘仁・天長のころに栄えた唐風の儀礼や漢詩文の文化は、承和年間(834年から848年)に頂点に達したとされる。天皇は古典の歴史、医学、詩、書、音楽、弓術を好み、『経国集』に詩が1首残る。菊の花を愛したため、菊のような淡い黄色は、在位中の元号の承和にちなんで承和色と呼ばれる。幼いころから病弱で、『続日本後紀』には7歳のころからの病歴が記されている。即位後もしばしば丹薬や石薬を調合し、医師並みの知識をもったという。藤原良相の薨去の記事には、自作の薬を良相ら側近に試飲させたとある。
嘉祥3年2月22日の朝廷の会議には、御簾を隔てて加わったと記されている。すでに重い病にあった姿を見せないためとみられ、その約1か月後に亡くなった。3月19日に病のため文徳天皇に譲位し、太上天皇にはならないまま、2日後の3月21日(西暦850年5月6日)に崩御した。41歳であった。和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊で、これを贈られた最後の天皇である。陵の所在地にちなんで深草帝とも呼ばれる。陵は京都市伏見区深草東伊達町の深草陵に治定されているが、文久の修復の際に定められたもので根拠が乏しく、本来は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- フワーリズミー (850年)
- ラミロ1世 (アストゥリアス王) (850年没)
- 黄檗希運 (850年没)
- アブー・ハフス・ウマル・バッルーティー (850年(推定))
- Wulfstan of Hedeby (850年)