伝記
アロロスのプトレマイオスは、古代マケドニアの人物で、紀元前368年ごろから365年ごろまで摂政として国を握った。没年は紀元前364年とも記されるが、紀元前365年に国王ペルディッカス3世に殺されたとする記述が多い。アレクサンドロス2世を殺して権力を握ったことで知られ、のちのマケドニア王ピリッポス2世がテーバイへ人質として送られる事態とも深く関わった。出自ははっきりしない。ディオドロスは父をアミュンタスとし、アミュンタス2世の弟メネラオスの血を引くという説もある。ただしアミュンタス3世の庶子だったとする説や、ディオドロスの誤りとする説もあり、デクシッポスは王家の者ではなかったと述べているとされる。
プトレマイオスは紀元前375年から373年ごろ、国王アミュンタス3世の使節としてアテナイへ送られた。伝えによれば、アミュンタスの死後、その未亡人エウリュディケと関係を結んだ。ローマの歴史家ユスティヌスは、エウリュディケが娘婿のプトレマイオスと通じて夫を殺そうとしたが、娘エウリュノエが露見させたと伝える。その真偽や二人の関係の詳細には見解が分かれる。アミュンタスの子アレクサンドロス2世の治世、プトレマイオスは王位を要求して反乱の先頭に立ったともいわれ、テーバイの将軍ペロピダスが調停者として呼ばれ、アレクサンドロスを王と確認した。ペロピダスはこの調停の履行を確かなものにするため、テーバイへ人質を連れ帰った。
その後まもなく紀元前368年(367年とも)、アレクサンドロス2世が殺された。ディオドロスはこれをプトレマイオスの仕業とし、ユスティヌスは母エウリュディケの陰謀によるとする。デモステネスはアポロパネスという名の者が殺害者だと述べている。この行いは、マケドニアの有力な家々には好意的に受け取られず、彼らはペロピダスを呼んで平和を取り戻させた。その和平の一環として、アレクサンドロスの弟ピリッポスらが人質としてテーバイに連れ去られた。アレクサンドロスが殺されたとき弟のペルディッカス3世はまだ成年に達しておらず、プトレマイオスが摂政として国を治めた。
ところが新たな王位請求者が現れる。亡命していた簒奪者パウサニアスが、ギリシア人の兵を率いて戻り、アンテモスやテルマなどの都市を奪い、多くのマケドニア人の支持を得た。そのころアテナイは将軍イピクラテスを選んでアンピポリスへ送った。弁論家アイスキネスの演説によれば、イピクラテスはエウリュディケに迎えられ、彼女がペルディッカスを腕に、ピリッポスを膝に抱いて、亡き夫がイピクラテスを子と呼んだことを思い出させたという。イピクラテスはパウサニアスをマケドニアから追い出して王朝を守り、プトレマイオスを摂政のままにしたが、プトレマイオスはアンピポリスと結んでアテナイに対抗した。
亡きアレクサンドロスを支持するマケドニア人は再びペロピダスに助けを求め、ペロピダスは傭兵軍を率いて進んだ。しかしプトレマイオスは傭兵たちを買収し、ペロピダスを上位者として迎え、王の弟たちの摂政として統治することを受け入れ、息子ピロクセノスと側近五十人を人質に差し出した。人質にはのちのピリッポス2世も含まれていた。以後も摂政として権力を握ったが、紀元前365年ごろ、ペルディッカス3世は後見のもとで暮らすことを望まず、彼を殺した。ペルディッカスは王になるとアンピポリスをめぐってアテナイと戦った。
同じ年に亡くなった人物
- メガラのエウクレイデス (紀元前 364年)
- ペロピダス (紀元前364年没)
同じ地域に関係する人物
- アミュンタス3世 (紀元前370年没)
- クレオン (政治家) (紀元前422年没)
- Seyh Bedreddin Simavi (1416年没)
- パウサニアス (マケドニア王) (紀元前393年没)
- アルケラオス1世 (紀元前399年没)