HISTORICAL PERSON · 866年没

ロベール豪胆公

ネウストリア辺境侯でカペー朝の祖。ヴァイキングとブルターニュ勢力からフランクを守り続けたが、戦闘中に戦死した。

生涯
866年没
死亡地
フランス共和国(メーヌ=エ=ロワール県 / Brissarthe)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(メーヌ=エ=ロワール県)

伝記

ロベール豪胆公は、9世紀の西フランク王国で活躍したネウストリア辺境侯である。830年頃に生まれ、866年7月2日に戦死した。ヴォルムスガウ伯ロベール4世ともいわれる。一族は彼の名にちなんでロベール家と呼ばれ、後に西フランク王となるウードとロベール1世の父であり、フランス王ユーグ・カペーの曽祖父にあたる。カペー朝の祖とされる。

出自についてはほとんど知られていない。ヴォルムスガウ伯ロベール3世の子とする説があり、一族はエスベイ(現在のベルギー)の出身ともいわれるが、確かな証拠はない。この説によれば、東フランク王ルートヴィヒ2世の時代にロベール家は西フランクへ移った。852年、西フランク王シャルル2世は、敵である東フランクから来たこの一族に報いて、ロベールにマルムーティエ修道院長の地位を与えた。翌853年にはメーヌ、アンジュー、トゥーレーヌの国王巡察使に任じ、ロベールは事実上、かつてのネウストリアにあたる、ル・マンを中心とするメーヌ公領の支配権を得た。この勢力拡大は在地のロルゴ家の力を弱めたが、狙いはネウストリアをヴァイキングやブルトン人から守ることにあった。

858年、ロベールはシャルル2世に対する反乱に加わった。サロモンの率いるブリトン人とともにネウストリア貴族を率い、ルートヴィヒ2世に西フランクへの侵攻を促して忠誠の誓いを受けさせたのである。きっかけは、シャルルとブルターニュ公エリスポエとの婚姻による同盟と、シャルルの子ルイをネウストリア副王としたことで、これらによりサロモンとロベールの権力が削がれたことだった。シャルルはロベールにオータン伯領とヌヴェール伯領を与えており、856年にはロベールはオータンを守っていた。だが857年11月にエリスポエが暗殺されると、ロベールとサロモンは反旗を翻した。858年にはルイをル・マンから追い出した。861年、シャルルはロベールと和平を結んでアンジュー伯に任じ、ロベールはその後、北の沿岸をヴァイキングの侵攻から守りぬいた。

862年、シャルルは息子ルイにトゥールのサン・マルタン修道院長の位を与えたが、これは豊かな収入を得られるものの、856年に継ぎ858年に失った王国に比べれば小さかった。ルイは反乱を起こし、サロモンが味方についてロベールに戦いを仕掛けた。同年、2つのヴァイキング船団がブルターニュに集まった。サロモンは地中海遠征から戻った船団を雇ってロワール沿岸の村を襲わせたが、ロベールは12隻を捕らえて乗員をほとんど殺し、さらにセーヌ川から追われた船団を6,000ポンドの銀で雇ってサロモンの領地を襲わせた。狙いはヴァイキングがサロモンに仕えるのを妨げることだった。しかし863年にサロモンが和平を結ぶと、略奪の場を失ったヴァイキングはネウストリアを荒らした。シャルルはロベールをトゥールのサン・マルタン修道院の在俗修道院長に任じた。後年にはピピン2世とも争い、865年と866年にはル・マン周辺を略奪するブリトン人とヴァイキングに対処した。

866年7月2日、ブリサルトの戦いで、サロモンとヴァイキングの族長ハスティンに率いられた連合軍から西フランクを守って戦い、命を落とした。戦いのさなか、ヴァイキングの指揮官が近くの教会に追い込まれ、ロベールは包囲を始めるため甲冑を脱いだ。するとヴァイキングが突然襲いかかり、戦死したと伝えられる。9歳の息子ウードが跡継ぎとして残された。対ヴァイキングの戦功は『フルダ年代記』に「第二のユダ・マカバイ」と記された。妻はアデライードで、子にウードとロベール1世らがいる。

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