伝記
ロートレアモン伯爵は、本名イジドール・リュシアン・デュカスといい、1846年4月4日にウルグアイのモンテビデオで生まれ、1870年11月24日に24歳で没したフランスの詩人・作家である。父フランソワは1839年にフランスから移住し、現地のフランス領事館の書記官として働き、のちに副領事にまで出世した。母ジャケットは、イジドールを産んでほどなく亡くなっている。死因は自殺とも伝えられたが、詳細は不明のままである。モンテビデオで少年時代を過ごし、フランス語だけでなくスペイン語も巧みに話したとされる。1851年、5歳のときにはウルグアイ内戦での八年に及ぶモンテビデオ包囲の終結を経験した。13歳の1859年10月、父の意向で初めてフランスの地を踏み、両親の出身地であるタルブとポーのリセで学んだ。ラシーヌやコルネイユ、ソフォクレスの『オイディプス王』の目をつぶす場面に魅了され、ポーやシェリー、バイロン、ミュッセ、ボードレールなども愛読したという。級友の証言では、作文に恐ろしい死のイメージを積み重ねる奇矯さを示していたとされる。
リセを卒業した後、1867年に一時ウルグアイの父のもとに身を寄せたが、作家を志してパリに上京した。父からの仕送りがあり、執筆に専念できた。1868年、後世に名を残す『マルドロールの歌・第一歌』を、作者名を伏せた形で自費出版した。ただし発売はされず、ほとんど人目に触れなかった。同年11月にはヴィクトル・ユゴーへ手紙を送って推薦を求めている。翌1869年1月末には、ボルドーの詩のアンソロジー「魂の芳香」に、ほぼ同じ形の第一の歌が掲載され、ここで初めて「ロートレアモン伯爵」の筆名を用いた。この名はウジェーヌ・シューの1837年の小説『ラトレオーモン』に由来するといわれ、筆名を「ラトレオーモン伯爵」とするつもりが印刷所の誤植で「ロートレアモン」となったとする説が、今日有力である。伯爵を称しているが、デュカス家は貴族の家系ではない。
1869年に六つの歌からなる『マルドロールの歌』を完成させ、印刷費を自己負担して出版しようとしたが、出版社のラクロワ社は、過激な内容で当局に告発されることを恐れて二の足を踏み、出版は実現しなかった。ボードレールの『悪の華』を出版したプーレ=マラシにも、ベルギーとスイスでの出版を依頼したが、これも実現しなかった。1870年4月には本名イジドール・デュカスの名義で断章集『ポエジー』を書き、第2集を6月に出版した。直後に、居住先のホテルで謎の死を遂げた。自殺説や政治運動に関わっていたための暗殺説もあるが、当時は普仏戦争でプロイセン軍がパリを包囲しており、混乱の中の食糧不足や疫病の流行が死因ではないかという推測が研究者の間で有力である。遺体はモンマルトルの墓地に収容されたが、後の区画整理で行方が分からなくなった。
生前はほぼ無名のまま生涯を終えたが、死後にはまずベルギーの若い文学者たちによって「発掘」され、ジャリやメーテルリンクに影響を与えた。20世紀に入ると、フランスでもアンドレ・ブルトンやフィリップ・スーポーによって作品が再発表され、とくにシュルレアリスム文学に大きな影響を与えた。1970年代以降はジャン=ジャック・ルフレールらの研究で、肖像写真や自筆の書簡が発見されている。
同じ年に亡くなった人物
- アベル=フランソワ・ヴィルマン (1870年没)
- ヨーゼフ・シュトラウス (1870年没)
- サヴェリオ・メルカダンテ (1870年没)
- ジャン・バティスト・ルイ・グロ (1870年没)
- Infante Enrique of Spain (1870年没)
同じ地域に関係する人物
- サン・ヴィクトルのフーゴー (1141年没)
- ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール (1710年没)
- クロード・シモン (2005年没)
- アマルリクス (1200年代没)
- フランソワ・フェイト (2008年没)