HISTORICAL PERSON · 1873年没

ジョン・スチュアート・ミル

イギリスの哲学者・政治哲学者・経済思想家。ベンサムの功利主義の擁護者として知られ、論理学でも後続の分析哲学に影響を与えた。下院議員として最初の婦人参政権論者となり、比例代表制を主張した。

生涯
1873年没
死亡地
フランス共和国(ヴォクリューズ県 / アヴィニョン)
出生地
イギリス連邦(イズリントン・ロンドン特別区)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴォクリューズ県)

伝記

ジョン・スチュアート・ミルは、1806年5月20日にロンドンで、哲学者ジェームズ・ミルとハリエット・バロウの長男として生まれたイギリスの哲学者である。政治哲学者、経済思想家でもあり、晩年は自ら社会主義者を名乗った。学校へは行かず、厳格な父によって教育された。父はベンサムの思想に共感し、アソシエーショニズムの支持者でもあり、ミルを優れた知識人に育て上げ、ベンサムと自分の死後は功利主義を彼に担わせたいと考えていた。そのため幼いころから年中勉強させられ、同年代の子供たちと遊ぶことは禁じられていた。自伝によると3歳で古代ギリシア語を学び、8歳になるころにはイソップ寓話やクセノポンの『アナバシス』、ヘロドトスの著作をすべて読んでいた。同じ年にはラテン語や幾何学、代数学も学び始めた。10歳のころにはプラトンやデモステネスを難なく読み、12歳でスコラ論理学とアリストテレスの論理学に取り組み、翌年には政治経済学を始めてアダム・スミスやリカードを父とともに研究した。

21歳のとき、本人が「精神の危機」と呼ぶ状態に陥り、興味や意欲が著しく減退してうつ状態になった。ワーズワースなどのロマン主義への接近と、1830年に出会ったハリエット・テイラーとの親密な交友が、この危機を乗り切る助けになったという。ハリエットは当時すでに人妻であり、モラルにうるさいヴィクトリア朝期にはかなりの問題であったが、ミル本人の証言では、二人は清い交際を保っていた。ハリエットは1833年に末娘ヘレンを連れて夫と別居し、週末にミルが訪問するという暮らしをとった。夫テイラーの死から2年後の1851年に結婚したが、1858年にアヴィニョンでハリエットが急死し、結婚生活は短く終わった。ハリエットは社会活動家でもあり、その後のミルの著作全体に強い影響を与えたとされる。

ミルはオックスフォード大学やケンブリッジ大学から研究の場を提供されたが断り、父と同様に1858年までイギリス東インド会社に勤めた。専門職としての学者であったことは一度もない。東インド会社の解散後は、1865年から68年まで、ウェストミンスター選挙区から無所属の下院議員として選出された。この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、下院で最初の婦人参政権論者となった。ジャマイカ事件ではダーウィンらとともに反乱した黒人を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張った。しかし政治家としてはあまりに先進的で理想主義的であったため、次の選挙では落選した。バートランド・ラッセルの名付け親でもある。

主要な著作の多くは1840年代以降に書かれた。論理学では1843年に『論理学体系』を著し、帰納の方法である「ミルの方法」を五つ提唱した。経済学では1848年に『経済学原理』を著し、古典派経済学の代表的な教科書として、マーシャルの登場まで君臨した。1859年の『自由論』では、個人の自由と、国家が個人に行使する権力の正当な限界を論じ、他者に危害を加えない限り人は自由であるべきだという「危害の原理」を示した。また1861年の『功利主義論』などで、ベンサムが量的に捉えた快楽に質的な差異を認め、精神的な快楽を重んじた。『自由論』は、明治時代に中村正直が『自由之理』として翻訳し、大隈重信の立憲改進党の思想に大きく影響を与えたという。

『女性の隷属』や『代議政治論』も著し、比例代表制や普通選挙制といった選挙制度改革を主張した。1873年5月8日、フランスのアヴィニョンに滞在中に丹毒で亡くなり、妻とならんで墓がある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物