伝記
カール3世は、839年に東フランク王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)と、ヴェルフ家出身の王后ヘンマの三人兄弟の末子として生まれた。カール大帝の曾孫にあたる。後世に「肥満王」と呼ばれるが、この異名は同時代のものではなく、12世紀の年代記に初めて見える。同時代の資料に体格への言及はなく、あだ名だけが定着したという。若いころには、口から泡を吹いて祭壇に運ばれたという悪霊憑きの出来事が伝えられ、父と本人に大きな衝撃を与えたとされる。ある記述は、彼を神を畏れ、施しに惜しみない敬虔な君主として描く。
859年にブライスガウ伯となり、863年には長兄カールマンが父に反乱を起こし、翌年に次兄ルートヴィヒ(3世)が続くと、カールもそれに加わった。865年に父が領土を分けたとき、カールはアレマニア(のちのシュヴァーベン)を得た。876年に父が没すると、遺領は予定どおり分割され、カールはアレマニアを継承した。三兄弟は争いを避けて協力しあい、それは中世初期には珍しいことだった。877年に長兄カールマンがイタリアの支配を手にしたが、879年に卒中で動けなくなると領土を弟たちに分け、イタリアはカールに渡った。カールはこのころから、886年までの治世の大半をイタリアで過ごした。880年には西フランクの王たちとともに、反乱を起こしたプロヴァンスのボソをヴィエンヌに攻めて失敗し、882年に送ったブルゴーニュ公リシャールがのちに市を落とした。881年にはローマで教皇ヨハネス8世から皇帝として戴冠された。
882年に次兄ルートヴィヒ3世が没すると、その遺領を継いで東フランク全土を手にした。さらに884年、西フランク王カルロマン2世が没し、西フランクの政治を担っていたジュミエージュ修道院長ゴズランからその王国を委ねられて西フランク王に即位した。これによりフランク王国は一時的に統一され、カロリング帝国が一人の支配のもとに戻った。しかしカールは病弱で、てんかんを患っていたと考えられ、優柔不断で意欲も才覚に乏しい人物とみなされてきた。サラセン人の侵入に対するイタリア遠征を繰り返したが失敗に終わった。886年にはパリを包囲したヴァイキングに対し、サンス地方への進出を認め、700リーヴルの支払いを約束して和議を結んだ。この弱腰が、失脚を招いたとされる。庶子のベルンハルトを、次いでプロヴァンス王ボソの子ルイ(3世)を後継者にしようとしたが、いずれも失敗した。妃リヒャルディスとの間に嫡子はなかった。
887年11月、甥のアルヌルフがドイツを拠点に反乱を起こすと、カールはナイディンゲンに逃れただけで手を打てず、トリブールの帝国議会で退位に追い込まれた。静かな隠居を強いられ、2か月後の888年1月13日に自然死したとされる。死後、王国は急速に分裂し、アルヌルフが東フランクとロタリンギアを、パリ伯ウードが西フランクを、ベレンガーリオ1世がイタリアを、ルドルフ1世が上ブルグントを、ルイ(盲目王)がプロヴァンスを継いだ。彼は嫡出のカロリング家出身の最後の皇帝であり、統一されたフランク王国を治めた最後の王でもあって、以後フランク王国が再び統一されることはなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ブルグレッド (888年)
- アブー・ダーウード・シジスターニー (888年没)
- リンベルト (888年没)
- ボジヴォイ1世 (888年没)
- ムンジル (888年)
同じ地域に関係する人物
- ハンス・フィルビンガー (2007年没)
- カール・クリスティアン・グメリン (1837年没)
- エルンスト・ゴットリープ・フォン・ストイデル (1856年没)
- ルートヴィヒ・ウーラント (1862年没)
- カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1420-1493) (1493年没)