伝記
ステファヌス6世は、896年から897年にかけて在位した第113代のローマ教皇である。ステファヌス7世とも書かれることがあり、生年は不明で、897年8月に没した。ローマの生まれで、父はヨハネスという名で、司祭もしくは教会長老だったとされる。教皇フォルモススによってアナーニの司教に任命されたが、不本意だったともいわれる。
896年4月にフォルモススとボニファティウス6世が相次いで亡くなると、教皇の座をめぐって有力な家門が争った。ステファヌス6世は、反フォルモスス派のスポレート公ランベルトらスポレート派の庇護を受けて教皇に選ばれた。ランベルトはアルヌルフに追われてローマを出たものの、アルヌルフが病のためにローマを離れ、自国の問題にも悩まされていたため、街を取り戻していた。選出の事情ははっきりしないが、就任の当初、教皇はフォルモススがアルヌルフを皇帝に戴冠させたことを認め、自身もアルヌルフを皇帝と認める文書を出していたという。しかし、教皇はスポレート派に頼る立場にあり、ランベルトの勢力の伸長と、その母アゲルトルダの働きかけによって、ランベルトを唯一の皇帝と認め、フォルモススを裁くよう命じるに至った。
897年初め、教皇はフォルモススの遺体を墓から掘り起こし、裁判にかけた。これが「死体裁判」で、教皇の衣服を着せて玉座に座らせた遺体に対し、あらかじめ選ばれた助祭が死者に代わって答えたとされる。主な罪状は、ポルト司教でありながら、その座を捨てて教皇になったことであった。フォルモススは、それ以前に聖職の資格を奪われていたにもかかわらず司教の務めを果たしたとされ、ヨハネス8世の時代の争いで持ち出された非難も蒸し返された。遺体は有罪とされ、教皇としての選出は無効を宣告されて、その在任中の叙階もすべて取り消され、聖職者は叙階をやり直すこととされた。聖別の衣服をはがされ、祝福を与える右手の3本の指を切り落とされ、俗人の服を着せられていったん埋葬されたのち、再び掘り出されてテヴェレ川へ投げ込まれた。この裁判は、ローマの聖職者会議では、参加者たちが望まないなかで行われたともいわれる。事件の真の首謀者は、権力を取り戻したフォルモススの敵、特にスポレート派だったかもしれないともいう。
この裁判に、民衆は激しく反発した。ラテラノの大聖堂を大きく傷めた地震は神の罰と受け取られ、憤った民衆は教皇をラテラノ宮殿で捕らえて牢に入れ、897年8月に絞め殺した。地震で傷んだ大聖堂は、教皇庁の財政難のために長く直されず、修復はセルギウス3世の時代までかかった。そのセルギウスは、ステファヌスの友でありフォルモススの容赦ない敵であったとされ、教皇になると聖ペトロ大聖堂に霊廟を建て、フォルモススを侮辱してステファヌスの悲惨な最期を記す碑文を刻ませたという。ステファヌス6世の死の後は、ロマヌス、テオドルス2世、ヨハネス9世と短期間の教皇が続き、彼らによってフォルモススの名誉が回復され、遺体は丁重に埋葬し直されて、死体裁判の無効が宣言された。教皇が殺害されたのは、これが初めてではなく、882年にも教皇ヨハネス8世が、初の教皇暗殺によって命を落としており、当時の混乱ぶりがうかがえる。
同じ年に亡くなった人物
- ブラスラヴ (897年)
- ロマヌス (ローマ教皇) (897年没)
- 趙州従諗 (897年没)
- テオドルス2世 (ローマ教皇) (897年没)
- テオファノ・マルティナキオス (897年没)
同じ地域に関係する人物
- グイド・ブリニョーネ (1959年没)
- ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ (1594年没)
- フアン・デ・トルケマダ (1468年没)
- トト (俳優) (1967年没)
- Titus Quinctius Atta (紀元前76)