伝記
テオファノ・マルティナキアは、ビザンツ皇帝レオン6世賢帝の最初の皇后である。866年か867年ごろに生まれ、897年11月10日に没した。東方正教会では聖人として崇敬されている。
父はコンスタンティノス・マルティナキオス、母はアンナという。一族のマルティナキオス家は、820年から867年までビザンツ帝国を治めたアモリア朝と縁続きだった。歴史家セッティパニは、両家が共通の祖先を持ち、そのため子孫が帝位を主張できた可能性を指摘する。テオファノの生まれる数十年前には、マルティナキオス家の者が帝位に就くという予言があったとされる。これに対してアモリア朝の皇帝テオフィロスは、親族のマルティナケスを修道士にならせ、自分の家を修道院に変えさせた。母方ではエウドキア・インゲリナの親族にあたるともいわれる。
レオン6世との結婚は、皇帝バシレイオス1世の治世第16年、すなわち882年9月から883年9月のあいだに行われたとされる。この縁組はバシレイオスが取り決めてレオンに強いたもので、父子の仲の悪さが結婚の破綻に影響した可能性も指摘される。レオンはバシレイオスの子とされるが、母エウドキア・インゲリナは先帝ミカエル3世の愛人でもあり、ミカエルが実の父と見なされることもある。886年8月29日にバシレイオスが没し、レオンが即位すると、テオファノは皇后となった。若いころに宗教の教育を受けた彼女は信仰に厚く、日々の大半を祈りと、詩篇や神への讃歌を書くことに費やしたと聖人伝は伝える。ギリシア北部のカルキディキ半島に聖アナスタシア・ファルマコリトリア修道院を建てたのも彼女だといわれる。
だがレオンは治世の第3年、889年ごろにゾエ・ザウツィナに恋をした。ゾエは愛人となり、やがてテオファノに代わって皇帝の寵愛を受けるようになった。治世の第7年、893年ごろ、テオファノはコンスタンティノポリスのブラケルナエ地区にある修道院に退いた。これが自らの意思だったのかどうかは、年代記家のシメオンもテオファネスもはっきり述べていない。ただ、生涯にわたる教会への献身の表れとも見られている。宮廷での役目はすぐゾエが引き継いだ。この時期の彼女の地位については、記録が食い違う。シメオンによれば、レオンとの結婚は正式に無効とされ、レオンとゾエは翌年のうちに結婚した。テオファネスによれば、最初の結婚はなお有効で、ゾエはあくまで愛人にとどまった。
テオファノは897年11月10日に修道院で没した。テオファネスによれば、レオンとゾエが結婚したのはこの時で、シメオンは、それより前に結婚したとする。ただし両者とも、ゾエがアウグスタとして戴冠したのは前任者の死後だったという点では一致している。没後、テオファノは正教会で聖人とされ、祝日は12月16日である。レオンは彼女のために教会を建て、その名を冠しようとしたが、禁じられた。そこで「諸聖人」に捧げることにし、彼女が義人の一人であれば、その祝日にともに記念されるようにしたという。伝承では、聖霊降臨祭後の日曜日の祝いを、殉教者全員の記念から、殉教者かどうかを問わない諸聖人の記念へと広げたのもレオンだとされる。二人のあいだに生まれた子は娘エウドキアただ一人で、その名はエウドキア・インゲリナにちなむとされる。娘は若くして亡くなった。エウドキアは使徒教会に、父母とともに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- Guy IV of Spoleto (897年)
- ギフレ1世 (897年没)
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- ヤアクービー (897年没)
同じ地域に関係する人物
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