伝記
趙州従諗は、中国・唐代の禅僧である。諡は真際禅師(真際大師)で、俗姓は郝。曹州済陰県郝郷の出身とされ、778年に生まれ897年に没したと伝わる。中国禅僧の中で最高峰の高僧とされ、五代十国時代の混乱した北方で禅を説いた禅者として、臨済義玄と並び称される。名の「趙州」は、晩年を過ごした地の名に由来する。
幼くして曹州の龍興寺で出家し、7〜8歳で悟りを得たともいわれる。16歳で池陽の南泉普願に師事した。ある日、趙州が南泉に「道とは何か」と問うと、南泉は「平常心是道」と答えた。さらに趙州が、向かうところはあるのかと問うと、少しでも向かう方向があれば道はゆがむ、と南泉は言った。方向がないのなら、どうしてそれが道だとわかるのかと重ねて問うと、南泉は、道は知るものでも知らぬものでもなく、知は妄覚で、不知は無記である、と説いた。この言葉を聞いて趙州は悟りを得たとされ、18歳で大悟して南泉の法嗣となった。その後、嵩山の琉璃壇で受戒した。諸方への行脚にも出たが、師の存命中は南泉山を本拠として随身を続け、57歳で南泉の遷化に逢い、3年間喪に服した。南泉は馬祖道一の法を継いだ禅匠で、趙州は終生その人に学んだ。南泉との間には、東西両堂の僧たちが猫をめぐって争った際の問答も伝わる。南泉が猫をつかみ、正しい一語を言える者がいれば猫を助けると告げたが、千人の僧のだれも答えられず、南泉は剃刀で猫を二つに断ったという。夕方に戻った趙州にこの話を聞かせると、趙州は無言で立ち上がり、草履を脱いで頭にのせて出ていった。南泉は「あなたがいたなら猫は助かっただろう」と言った。この話は今日も重要な公案として知られる。
60歳で再び行脚に出て、諸方の禅匠と問答を重ねて境涯を練り、黄檗希運や塩官斉安らのもとで修禅した。師の没後に二十年にわたって諸国を巡ったともいわれ、夾山善会に会ったことも伝わる。そして80歳のとき、趙州(現在の河北省石家荘市趙県)の観音院に住した。観音院は東院とも呼ばれ、のちに柏林寺と改められた寺で、白槙の木々が繁っていたという。廃れた寺であったともいわれる。以後、120歳で没するまでの約40年間、ここで説法と教化にあたった。
その宗風は、棒や喝を用いる荒々しい指導が主流になりつつあった時代にあって、あらゆる質問に日常の平易な口語で答えるものだった。このため「口唇皮禅」と呼ばれ、「口唇皮上に光を放つ」と評された。あらゆる祖録の中で趙州の言葉が最も多く記録されているといわれる。一方、自らの一派を立てることはなかったとされ、門下には十三人の悟りを得た弟子が残ったと伝わる。没したのは897年とされ、真際大師の諡を贈られた。語録は『趙州真際禅師語録』(趙州録)としてまとめられ、行状も伝わる。
彼と門弟との問答の多くは、後世に公案として広く知られた。とりわけ「狗子仏性」の問答は『無門関』の第一則に取り上げられ、東洋的な「絶対無」の思想を象徴するものとして名高い。『碧巌録』には十二則、『無門関』には五則が趙州にかかわる。菩薩が成仏した後も俗世にとどまって衆生を救おうとする異類中行と大悲心を真髄とした、南泉から趙州に至る法系は、戦乱や仏教弾圧のため、のちに途絶え、1000年以後は確認できない。趙州の言葉として「泥の仏は水を渡れず、銅の仏は炉を通れず、木の仏は火を通れない」が知られ、鈴木俊隆は『禅マインド ビギナーズ・マインド』で、禅の修行に特定の目的はないと示すためにこれを引いた。それでも趙州は、中国や日本の禅者に「趙州古仏」と仰がれ続けている。
同じ年に亡くなった人物
- ロマヌス (ローマ教皇) (897年没)
- ギフレ1世 (897年没)
- ヤアクービー (897年没)
- テオファノ・マルティナキオス (897年没)
- Buhturi (897年)