伝記
プブリウス・デキウス・ムスは、共和政ローマの政治家・将軍である。生年は不明で、紀元前340年に没した。ラティウム戦争で自軍の勝利のために自らを生贄に捧げた伝説的な英雄として知られ、デキウス家は親子三代にわたって活躍した。
最初に名が見えるのは紀元前352年で、市民の借金の整理にあたる5人のメンサリウス(銭庫係)の一人に任命された。彼らはその職務を公正にうまく果たしたという。紀元前343年には、執政官の指揮下で軍団長(兵士たちの護民官ともいわれる)として第一次サムニウム戦争に加わった。サムニウムのガウルス山の山道を進んでいたローマ軍は、谷に入り込んだところを敵に囲まれた。デキウスは敵より高い位置にある丘を見つけ、一個軍団のハスタティとプリンケプスを率いて丘を占領することを執政官に進言し、受け入れられた。サムニウム人はこの動きに驚き、その間にローマ軍の本隊は危機を脱した。デキウスの部隊は敵に包囲されたが、夜のうちに抜け出して本隊に合流した。直後に彼は敵への総攻撃を提案し、ローマ軍は戦闘の備えができていなかった敵を散々に破り、敵の陣営も奪った。執政官はデキウスに金冠と牛100頭、角に金箔をつけた特別な白い牛を贈って称え、兵士たちは草冠を贈ったと伝えられる。
紀元前340年、デキウスはティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥスとともに執政官に選ばれた。この年、ラティウム同盟の使節が、ローマと対等の地位や、ラティウム人の元老院議員と執政官を求めたことなどからラティウム戦争が始まった。二人の執政官は二個軍団とサムニウム人部隊からなる軍を率い、カプア近くに陣を敷いた。その夜、各人が夢を見た。両軍のうち一方の将軍が自身と敵軍を生贄に捧げると誓えば、その軍が勝つという内容だった。二人は話し合い、戦いで苦戦したほうの軍の指揮官が生贄になることに決めたという。
戦いはウェスウィウス山のふもと近くで起こり、マンリウスが右翼を、デキウスが左翼を指揮した。当初は互角だったが、ローマ軍の左翼は押されて後退した。そこでデキウスは神祇官(マルクス・ウァレリウス・コルウスか)に、神々に自らを捧げる言葉を唱えるよう頼んだ。犠牲にふさわしい装いになって誓いの言葉を唱えると、服をガビイ風に締め、馬に乗って敵軍へ突進した。トガを頭にかぶったとも伝えられる。デキウスは敵の最も強い部分で討たれ、その命と引き換えに左翼は敵を敗走させた。これが最も一般的な話だが、異なる伝えもあり、ゾナラスはローマ兵の一人に殺されて捧げられたと述べている。
そのころ右翼のマンリウスも劣勢だったが、戦闘に加えていなかった予備の部隊を投入し、ラティウム軍も予備を出して対抗した。ローマの部隊が敵を押し返すのを見たマンリウスは全軍に総反撃を命じ、敵の4分の3以上を討ち取る勝利を収めた。ラティウム軍の陣営は捕虜もろとも奪われ、ローマ軍はラティウム人とカンパニア人から領土を奪って併合し、マンリウスは凱旋式を挙げた。デキウスの犠牲は大変有名になり、のちに同じ行為が同名の息子と孫にも帰せられた。息子も同名の執政官で、父と同じくローマの勝利に身を捧げたとされ、さらにその同名の子も執政官となって、紀元前279年にイタリアに侵入したピュロスと戦った。ただし近代の歴史家の一部は、実際にあった献身はアスクルムの戦いでの一件だけで、第三次サムニウム戦争のものは伝説の要素を加えて練り直された話だと主張している。
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