伝記
ピリッポス2世は、アルゲアス朝のマケドニア王で、紀元前382年に生まれ、紀元前336年に没した。在位は紀元前359年から紀元前336年である。アミュンタス3世の末の王子で、アレクサンドロス2世とペルディッカス3世の弟にあたり、のちに王となるアレクサンドロス3世(大王)の父である。ギリシアの弱小国だったマケドニアを、南部の先進的なポリスと張り合える強国へ育て上げ、ギリシアの覇権を握った王として知られる。
少年期、イリュリア人に敗れたマケドニアが貢納を課された際、彼は14歳で人質として、当時ギリシアの盟主だったテーバイに送られた。牢に入れられたわけではなく、ある程度の自由があり、才能を見込んだ将軍エパメイノンダスの家で教育を受けた。この間に、ファランクスやエパメイノンダスの斜線陣といった軍事の要点を学んだといわれる。帰国したのは、兄ペルディッカス3世が亡くなった後で、紀元前359年から甥のアミュンタス4世の摂政を務めたのち、王に即位した。摂政から王になった経緯は資料で見解が分かれ、最初から王に立てられたとする記録もある。
即位したころのマケドニアは内憂外患の状態で、外ではアテナイやイリュリア人の侵略を受け、内では王位を狙う者たちがいた。彼は外交と軍事を使い分けて問題を一つずつ解決した。軍では、他のギリシア人が重装歩兵を主力としたのに対し、騎兵と歩兵を組み合わせた戦術を用い、長さ4メートルから6メートル余りにもなる長槍サリッサを採用して方陣を大型化し、マケドニア式ファランクスを創始した。この戦術はその後およそ200年にわたって地中海世界で威力を発揮した。紀元前356年には金鉱の開発を進め、防衛の拠点となる都市ピリッポイを創設した。
南部への介入は紀元前356年に始まる神聖戦争である。テッサリアの要請を受けてフォキスと戦い、緒戦は苦戦したものの、紀元前352年に破り、紀元前346年にフォキスを制圧して戦争を終えた。紀元前342年にはアリストテレスを招き、王子アレクサンドロスとその学友たちをミエザの学園で教えさせた。この学友たちが、のちに彼を支える将軍となった。紀元前338年、カイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破り、スパルタを除くギリシア全土に覇権を確立し、コリントス同盟の盟主となった。この戦いでは、中央のファランクスに敵を引きつけて陣形に割れ目を作り、そこへ騎兵を突入させて勝利を得たとされる。勝利を記念して、彼はオリュンピアにフィリペイオンという円形建築を献じたが、完成は息子の代になった。
オリュンピア大祭の戦車競技で優勝したこともあり、その知らせはアレクサンドロスの誕生とほぼ同じころに届いたという。彼は喜び、妻の名をオリュンピアスにしたと伝えられる。戦傷も多く、紀元前357年ごろのメトネ攻略戦では矢で右目を失ったと伝えられる。彼はペルシア遠征を目指したが、娘クレオパトラとエペイロス王アレクサンドロス1世の婚礼の祝宴で、護衛のパウサニアスに暗殺された。仲が悪く離婚していた元妻オリュンピアスが黒幕だとする説が古くから取りざたされ、アレクサンドロスの関与を含む諸説があって、真相は今も定かでない。遠征の大事業は、息子のアレクサンドロス3世に引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- アミュンタス4世 (紀元前336年没)
- アッタロス (将軍) (紀元前336年没)
- アルセス (紀元前336年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドロニコス5世パレオロゴス (1407年没)
- ゲオルギオス1世 (ギリシャ王) (1913年没)
- ペルディッカス2世 (紀元前413年没)
- Yannis Boutaris (2024年没)
- ミカエル9世パレオロゴス (1320年没)