伝記
ミカエル9世パレオロゴスは、1277年4月17日に生まれた東ローマ帝国の皇帝である。父は第2代皇帝アンドロニコス2世パレオロゴス、母は父の最初の妃で、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘アンナである。生まれたのが復活祭の日だったため、年代記作者パキュメレスは、帝国の暗い時代に希望をもたらす奇跡のしるしとして迎えたという。当時の東ローマは、バルカンの大半をスラヴ人が占め、ペロポネソスの大半はフランク人が押さえ、小アジアではトルコ人が進んでいて、国庫も尽きかけた衰えの中にあった。
父の2度目の妃であるヨランダ・ド・モンフェラートは、帝国をミカエルだけでなく、自分の産んだ子たちにも分けることを望んだ。父がこれをきっぱり断ると、妃は子どもたちを連れてコンスタンティノープルを離れ、テッサロニキに移って、夫とミカエルに対する陰謀を続けた。ミカエルは後継者と目されていたので、11歳だった1288年から、結婚相手が探された。まず、ラテン帝国最後の皇帝の孫娘で、西方の宮廷では名目上のコンスタンティノープル皇后とみなされたカトリーヌ・ド・クルトネとの縁談が持ち上がった。しかし教皇が、ラテン人の皇后を「異端」の皇帝に嫁がせることに反対したため、まとまらなかった。キプロスのフランク人の王の娘との縁談も、同じ理由で実らず、シチリア王フェデリーコの妹ヨランダとの縁談もうまくいかなかった。
1294年、父が後継者対策を万全にするため、ミカエルを共同皇帝に指名した。彼は、父と同じ権限を持ち、ともに「アウトクラトール」の称号を帯びた最初の共同皇帝とされる。翌1295年、小アルメニアの王家の娘リタ(のちにマリアと改名)との結婚が承諾された。夫妻の間には、長男アンドロニコス(1297年生まれ)、次男マヌエル、娘アンナとテオドラが生まれた。
ミカエルは短い経歴のなかで、オスマン軍、ブルガリア人、カタルーニャ傭兵団に対する遠征をいくつか率いたが、いずれも大きな失敗か、中途半端な成功に終わった。その原因は、戦略のまずさ、東ローマ軍のひどい状態、あるいは単なる不運だったという。一連の敗北のあと、父から任じられてテッサロニキの総督となった。
晩年、息子のアンドロニコスは祖父とたびたび対立し、ついには祖父の暗殺を企てるまでになった。さらに恋敵を除こうとして、誤って弟のマヌエルを殺す事件まで起きた。年代記作者によれば、ミカエルは、娘のアンナと、長男の兵に殺された次男マヌエルを失った悲しみにより、テッサロニキで1320年10月12日に亡くなったという。父に先立つ死だった。孫のアンドロニコスは、1328年に皇帝アンドロニコス3世として即位した。
同じ年に亡くなった人物
- クトゥブッディーン・ムバーラク・シャー (1320年没)
- Margaret of Castello (1320年)
- ヘルヴィヒ・フォン・ホルシュタイン (1320年代没)
- Blanche of France, Infanta of Castile (1320年)
- ユヌス・エムレ (1320年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘラクレス (紀元前308)
- デマデス (紀元前318年没)
- アレクサンドロス4世 (紀元前309年没)
- アレクサンドロス2世 (マケドニア王) (紀元前368年没)
- アルガイオス1世 (紀元前640年没)