伝記
ゲオルギオス1世は、1845年12月24日にコペンハーゲンで生まれたギリシャ国王(在位1863年3月30日~1913年3月18日)である。デンマーク国王クリスチャン9世の次男で、元の名はクリスチャン・ヴィルヘルム・フェアディナン・アドルフ・ゲオーといい、デンマーク王子時代は「ヴィルヘルム」の名で呼ばれた。1852年に父が、嗣子のいないフレゼリク7世の継承者に選ばれ、一家は王子と王女の称号を与えられた。兄はのちのデンマーク王フレゼリク8世、姉にイギリス王エドワード7世の王妃アレクサンドラ、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后ダウマーがいる。ヴィルヘルムはデンマーク海軍の士官として活躍していた。
ギリシャ国民は、初代国王オソン1世を打倒したのち、共和制より君主制を支持したが、オソンの弟で推定相続人のルイトポルトの継承は拒んだ。イギリスとの関係強化を望んで、ヴィクトリア女王の次男アルフレッドに王位を打診し、国民投票では240,000票の95%が彼の王位継承を望むという結果が出た。しかし1832年のロンドン会議は、列強の王族がギリシャの王位を継ぐことを禁じており、ヴィクトリア女王も強く反対した。結局、ギリシャ政府と列強は、デンマークのヴィルヘルム王子を選んだ。前国王オソンとの違いは二つあった。一つは、列強による強要ではなく、ギリシャ議会の満場一致で選ばれたこと、もう一つは、「ギリシャの国王」ではなく「ギリシャ人の国王」と宣言されたことである。1863年3月30日に国王に選出され、デンマークの国教のルーテル教会からギリシャ正教会に改宗した。コペンハーゲンの即位式では、イギリス政府がこれを記念して、イオニア諸島をギリシャへ割譲すると発表した。
17歳の新王は、1863年10月30日にアテネに到着した。前王の過ちを繰り返すまいと決意し、母国語のデンマーク語に加え、すぐにギリシャ語を習得した。華美な服装で人前に現れた前王とは対照的に、格式張らない姿で街を歩いた。1864年11月28日に新憲法を守ることを宣誓した。この憲法は、近代ヨーロッパで初めて、すべての成人男性による直接・秘密・普通選挙を規定したものだった。一院制の議会を施行して立憲君主制を成立させ、経済面に重点を置いた近代化を志した。もっとも1864年から1910年までの間に、21回の総選挙と70回もの内閣の交代があった。領土では、1864年にイオニア諸島、1881年にテッサリアを獲得した。1893年には、アドリア海からピレウスまでの距離を大幅に縮めるコリントス運河が完成した。1896年にはアテネで初の近代オリンピックが開かれ、国王が開会式を主宰した。
1897年2月には、次男のゲオルギオス王子をクレタ島に派遣して島の占領を試みた。やがてギリシャ軍がオスマン帝国に宣戦を布告し、希土戦争が起きた。さらに1912年にはマケドニア、エピロス、テッサロニキを、1913年にはクレタ島を獲得した。しかし領土獲得のためには手段を選ばないかのような発言が周辺国の反発を買い、第一次バルカン戦争中の1913年3月18日、前年にオスマン帝国から奪還したテッサロニキを訪れた際に、暗殺された。没後の1954年から発行された10ドラクマ紙幣に肖像が使われた。
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