伝記
アルフォンソ3世(848年頃〜910年12月20日)は、アストゥリアス王である。「大王」の称号でも呼ばれる。オルドーニョ1世と妃ヌーニャ(ムニア)の子として生まれ、853年に王位継承者とされてガリシアの統治を任された。
父王が死去すると、その王位継承に異を唱えたルーゴ伯フルエラ・ベルムデスと対立した。ベルムデスが王位簒奪に動くと、アルフォンソはアラバへ逃れたが、1年後にカスティーリャ伯の助力を得てガリシアの統治権を取り戻した。オルドーニョ1世以前は選挙王制が行われていたが、当時すでに忘れられていたという。そのほか貴族の反乱や、一族のベルムード公の反乱など一連の内乱に見舞われた。867年には反乱を起こしたバスク人を制圧した。
オルドーニョ1世の代に始まった、イスラム勢力との国境地帯への再植民を継承し、強力に推し進めた。王国南端の自然の国境であるドゥエロ川流域、サモーラやトーロの周辺には、おもにモサラベを送り込んだ。878年にはポルトガル北部へ軍を送り、コインブラとポルトを征服して、南西の国境をモンデゴ川に定めた。イスラム軍との戦いも優勢で、ポルボラリアで打ち負かした。また、メリダ領主がコルドバの太守に反旗を翻した際、太守が大臣ハーシムを送り込むと、イスラム軍はコルドバからレオンなどへ進軍した。アルフォンソ3世はタホ川の谷でこれを敗退させ、反撃してきた太守軍もバルデモーロで再び破った。太守ムハンマドは大臣の身代金を払う羽目になり、3年の休戦が結ばれた。ムハンマドは海からガリシアを攻めようと船を集めたが、嵐で全滅した。882年にはムハンマドがサラゴサ王国を急襲し、そこにいた王の子オルドーニョをめぐって捕虜の交換が行われ、太守軍は追い出された。883年の戦いも同じ結果となった。901年にはイブン・キートが聖戦を唱えてサモラを包囲した。
文化面でも功績が多い。893年に第2回オビエド教会会議を招集し、フランク王国から来た職人にビクトリア十字をつくらせた。これは現在もアストゥリアス自治州旗に採用されている。サンティアゴ・デ・コンポステーラで使徒の墓が見つかり、同地はローマに次ぐ巡礼地となった。バルデディオス教会など、プレロマネスク様式のアストゥリアス芸術を代表する建築もこの時代につくられた。西ゴート王国の継承者としてのアストゥリアス王国の歴史を記した、881年のアルベルデンセ年代記、883年のプロフェティカ年代記、911年頃のアルフォンソ3世年代記という3つの年代記を編纂させた。さらに、サン・ミゲル・デ・エスカラーダ修道院の土地をコルドバから来た修道士たちに寄進し、これはモサラベ建築の代表とされる。
873年にヒメナ・ガルセスと結婚し、ガルシア1世、オルドーニョ2世、フルエーラ2世らをもうけた。晩年は、カスティーリャ伯ムニオ・ヌニェスの娘を妻とした長子ガルシアの反乱に直面した。舅に教唆されたとみられる。ガルシアが父に捕らえられると、ヒメナと他の息子たちがこれを支持して反乱を引き起こした。事実上は廃位されたが、王としての地位は保持したままだったとされる。ヒメナはパンプローナ王ガルシア・イニゲスの娘とも推測されるが、素性は不明である。ほかにオビエドの助祭となったゴンサーロと、ラミロという子もいた。王は内戦を避けるためガルシアを解放し、王妃とともにサモラへ隠遁して、そこで没した。王国は子らが分割し、ガルシアがレオン、オルドーニョがガリシア、フルエラがアストゥリアスを継承した。
同じ年に亡くなった人物
- ヤショーヴァルマン1世 (910年没)
- イスハーク・イブン・フナイン (910年)
- 韋荘 (910年没)
- Ibn Abi Shaiba (910年没)
- Muncimir of Croatia (910年没)
同じ地域に関係する人物
- オルドーニョ3世 (956年没)
- ガルシア1世 (レオン王) (914年没)
- ベアトリス・デ・ポルトゥガル (カスティーリャ王妃) (1408年没)
- ベアトリス・デ・スアビア (1235年没)
- セシリア (1976年没)