伝記
ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクは、1814年1月27日にパリの裕福な家庭に生まれた19世紀フランスの建築家・建築理論家である。中世建築の修復と、ゴシック建築を構造合理主義の立場から解釈したことで知られる。母エリザベトは知識人を招くサロンを開き、伯父ドレクリューズは美術評論家としてスタンダールやメリメらと交流があった。そのため幼い時から、知的な交流にあふれた教養豊かな環境で育った。絵画に早くから才能を示したが、建築教育の正統的な機関エコール・デ・ボザールを「建築家を鋳型にはめ込むもの」と批判して入学を拒んだ。その後はフランス各地を巡って中世建築のデッサンに励み、デッサン学校で教授代理も務めた。
1836年に教え子とイタリアを旅し、古典建築の傑作を賞賛しつつも、古典様式をフランスの風土や慣習を考えずに再現しようとするボザールの姿勢に疑問を深め、母国で顧みられていない中世ゴシック建築への敬愛を強めていった。メリメの推薦で古建築の修復にかかわるようになり、1840年からヴェズレーのラ・マドレーヌ教会堂の修復を手始めに、パリのサント・シャペルやノートルダム、アミアンやルーアンの大聖堂など、多くの教会堂や城館の修復に携わった。ヴェズレーでは、側廊の2階部分を欠くなどの構造的欠陥のため側壁が外へ開く危機的な状態を、実測調査で把握して修復し、1859年に完了させた。正式な建築教育を受けないまま現場に出た彼は、この経験から構造分析の重要性を認識し、ゴシック建築ではすべての部位が相互に構造的に対応しあって全体を成すと確信した。これが構造合理主義理論につながった。
ノートルダム大聖堂では、サント・シャペルの修復で出会ったラシュスと共同で提出した修復案が設計コンペで一等となり、1845年に工事が始まった。当初の計画は控えめだったが、1857年にラシュスが没したころから内容が大胆になり、失われていた尖塔を以前より10メートルほど高く復元し、基部に福音史家と十二使徒の像を加えた。像のモデルが彼自身やスタッフだったことも含め、のちに大きな批判を浴びた。ピエールフォン城は、1857年にナポレオン3世から修復を命じられた。当初は廃墟を眺める別荘にする程度の予定だったが、1860年には外観の全面復元、1862年には内装を含む完全な離宮化へと広がり、考古学者らから長く攻撃された。他方、新しい教会堂も設計し、1860年に依頼されたサン・ドゥニ・ド・レストレ教会堂では、サン・ドニ大聖堂の方角に向けて、あえて正面を東向きにした。
修復の経験をもとに『中世建築辞典』(1854年~1868年)を著し、1863年にはボザールの教授になったが意見の対立から辞任した。『建築講話』(1862年~1872年)で自らの建築理論を展開し、当時新しい材料だった鉄の利用も認めた。その理論に対しては、交差リブの構造上の役割や中世の職人の合理性をめぐる批判もあるが、アール・ヌーヴォーや20世紀の建築家に大きな影響を与えた。1879年9月17日、スイスのローザンヌにあった自邸「ラ・ヴェデット」で死去した。ピエールフォン城の修復は、彼の死後の1885年に現在の形で完成した。
同じ年に亡くなった人物
- アドルフ・アンデルセン (1879年没)
- ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ (1879年没)
- Ignacio Ramirez (1879年没)
- ジェームズ・クラーク・マクスウェル (1879年没)
- リュベン・カラヴェロフ (1879年没)
同じ地域に関係する人物
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- ポール・ファイヤアーベント (1994年没)
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ (1882-1940) (1940年没)
- カロル・シマノフスキ (1937年没)
- パウル・ユオン (1940年没)