伝記
ポール・カール・ファイヤアーベントは、1924年1月13日にウィーンで生まれ、1994年2月11日に没したオーストリア出身の哲学者、科学哲学者である。高等学校までをウィーンで過ごし、この時期に多読の習慣を身につけた。演劇にも興味を持ち、声楽のレッスンを受け始めた。1942年4月に高等学校を卒業すると、ドイツの労働奉仕隊に徴用され、ザールブリュッケン近郊での基礎訓練ののち、ブルターニュ地方のブレスト近くの村に配属された。自伝には、この時期を退屈なものとして、塹壕を掘ってはそれを埋めたという趣旨の回想がある。
一時除隊ののち正規陸軍に徴用され、士官学校では自主講座も受け持った。自伝には、訓練課程の途中で戦争が終わることを望んでいたとの記述があるが、その望みは叶わず、1943年12月に士官としてロシア戦線の北部に配置された。ここで鉄十字章を受け、少尉にまで昇進している。しかし赤軍の進撃でドイツ軍が撤退を始めると、部隊を指揮している最中に3発の銃弾を受けた。一発が腰椎に当たり、残りの生涯にわたって歩行障害と、しばしば襲う激しい痛みに悩まされることになった。戦争の残りの期間は療養に費やした。
戦後はヴァイマール近郊の町アポルダで、市の催しの台本を書く仕事を得た。マルクス主義の劇作家ブレヒトに影響を受け、東ベルリンのオペラでの助手に招かれたが、断った。ヴァイマール音楽院で多くの授業を取り、ウィーンに戻ってからは歴史学と社会学を学んだが満足できず、まもなく物理学に転じた。そこで出会ったフェリックス・エーレンハフトの実験は、のちの自然科学の見方に影響を与えたという。やがて研究領域を哲学に移し、観察命題に関する学位論文を提出した。当時の立場を、自伝では「頑固な経験主義者」と述べている。1948年にはオーストリア・カレッジ協会の国際夏季学校でカール・ポパーと初めて出会った。1951年にはヴィトゲンシュタインに学ぶため奨学金を得たが、渡英の前に本人が亡くなったため、ポパーを指導教授に選び、1952年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスへ移った。ポパーの考えに「参っていた」と自伝は語る。
1955年、イギリスのブリストル大学で最初の職に就き、科学哲学の講座を担当した。1958年にはカリフォルニア大学バークレー校へ移ってアメリカの市民権を得て、ロンドン、ベルリン、イェール、ニュージーランドのオークランド大学などでも教えた。この間に、規則を教条的に用いることを退ける、自ら「アナーキスト的」「ダダイスト的」と呼ぶ科学観を唱えた。ロンドンで出会ったイムレ・ラカトシュとは、科学の合理主義を擁護する側と攻撃する側に分かれた対話編を出す計画があったが、1974年のラカトシュの急死で頓挫した。1975年の『方法への挑戦』は大きな反響を呼び、ほかに『自由人のための知』『理性よ、さらば』などがある。
1980年代はチューリッヒ工科大学とバークレーを往復したが、1989年10月のロマプリエタ地震を機にバークレーを去り、イタリアを経てチューリヒに落ち着いた。1991年に定年退職したのちも論文を発表し、自伝の執筆を続けた。1994年、脳腫瘍との闘病の末、スイスのレマン湖を臨む病院で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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