伝記
タバリーは、アッバース朝時代のバグダードで活躍したウラマー(イスラム学者)である。フルネームはアブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・ジャリール・アッ=タバリーといい、出身はカスピ海南岸のタバリスターン地方である。ハディース学とクルアーン解釈学で優れた業績を残し、『諸使徒と諸王の歴史』と『クルアーン章句解釈に関する全解明』の二著作は、後世の歴史学と解釈学の基礎的な文献として、いまも重要である。
838年か839年の冬、タバリスターンの州都アーモルで生まれた。早熟で、850年か851年、12歳のころ勉学のために故郷を離れた。その後も故郷とは密接な関係を保ち、少なくとも二回は戻っている。最後は903年で、はっきりものを言う性格が不愉快な出来事を招き、早い旅立ちを決意させたのだろうと考えられている。最初に向かったレイでは約5年を過ごし、70代のイブン・フマイドから、イブン・イスハークの歴史的業績、とりわけ預言者ムハンマドの伝記を学んだ。後年の著作にイブン・イスハークからの引用が多いのは、この経験による。次にバグダードのイブン・ハンバルのもとへ向かったが、すでに没していたのは855年か856年ごろであった。聖地巡礼を優先させたとみられ、その後、バスラ、クーファ、ワースィトなどを回って各地の学者に会った。
バグダードへ戻ると、宰相ウバイドッラーの個人家庭教師になった。858年より前のことと考えられる。月に金貨10ディナールで就いたが、教え方と文才を気に入られ、皿いっぱいの金貨と銀貨を贈られた。契約した仕事に見合う額しか受けられないとして辞退したという。贈り物を固辞する逸話は数多い。20代の後半にはシリア、パレスチナ、エジプトを旅し、ベイルートではアル=アッバースからシリア学派のクルアーンの読み方を教わり、アウザーイー学派の法観念も伝えられた。867年にエジプトへ着き、マーリク学派とシャーフィイー学派の法学を学んだ。870年以降は時々バグダードへ戻った。父から収入を受け、死後は遺産を得て暮らし、政府や司法の公職に就くことはなかった。
黒い肌に大きな目と長いひげを持ち、背が高く細身で、髪と髭はかなり年をとるまで黒かったと描写される。赤身の肉や脂肪の多い食品を避け、晩年の10年に胸膜炎の発作に苦しむまで、ほとんど病気にならなかった。真剣な人柄ながらユーモアがあり、若いころは詩も学んだ。結婚はせず、朝早く起きて祈り、昼下がりまで研究し、午後の礼拝ののちクルアーンを朗誦して教え、法律などを遅くまで講じたという。
歴史書は世界の創造から915年までを扱い、矛盾する伝承も整理せずに並べる特徴がある。ザンジュの乱の一次資料にもなった。クルアーン注釈は文法学の観点から詳細で、現在も使われるものの中では最古の部類に入る。教友たちの伝説の収集も始めたが、未完に終わった。法学では、独自の見解を示すことをためらわず、引用する資料の正確さをまず吟味したが、方法は総じて融和的で穏健であり、反発を招く革新は避けたという。当初はシャーフィイー法学派と見られたが、のちに独自のジャリール学派を立て、ハンバル学派の強い怒りを買った。学派は競争に敗れて絶えた。923年2月17日、バグダードで没した。
同じ年に亡くなった人物
- アジェルトゥルデ・ディ・ベネヴェント (923年没)
- 朱友貞 (923年没)
- ロベール1世 (西フランク王) (923年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・タキー (835年没)
- マリク・シャー2世 (1105年没)
- ハーリス・ムハースィビー (857年没)
- ムハンマド・バーキル・サドル (1980年没)
- Ibn Jazla (1100年没)