伝記
エリギュイオスは、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)に仕えたマケドニアの将軍である。レスボス島のミュティレネの人で、ラリコスの子にあたる。父ラリコスはミュティレネの生まれで、まだ若いころにピリッポス2世が征服したアンピポリスに移り住んだともいわれる。兄弟にラオメドンがおり、二人は大王の幼いころからの仲間(ヘタイロイ)に数えられる。マケドニア軍の中でも、非マケドニア人のギリシア人として最高位に近い立場にあった。
アレクサンドロスが父王ピリッポスと対立したとき、エリギュイオスは兄弟のラオメドン、ネアルコス、プトレマイオス、ハルパロスらとともにピリッポスによって追放された。発端は、アリダイオスに予定されていた太守ピクソダロスの娘の結婚をめぐる一件で、彼らは王子にこの娘との縁組を勧めたとして咎められたとされる。紀元前336年にピリッポスが亡くなると帰国を許され、アレクサンドロスの即位後には栄職を与えられた。このときエリギュイオスは同盟軍騎兵の指揮官に任じられた。
東方遠征にも同盟軍騎兵の指揮官として加わり、グラニコス川の戦いではギリシア人同盟騎兵600騎を率いたとされる。ただし、グラニコス川の戦いで騎兵の長として挙がるのは別人のピリッポスだとする記録もあり、確かなことは言いきれない。紀元前331年のガウガメラの戦いにも従軍し、アレクサンドロスがダレイオス3世を追撃すると、その指揮下で追撃に加わったが、追撃は失敗に終わった。その後、ヒュルカニアへ逃げ込んだギリシア人傭兵部隊と現地のタプロイ人を討つため、東征軍はヒュルカニアへ向かった。山岳地帯だったので軍は三つに分けられ、エリギュイオスはその一つ、輜重隊とその護衛部隊を率い、のちにアルワイで王と合流した。フィロタスの裏切りののちに王が招いた会議にも出席していたとされる。
紀元前330年、いったんアレクサンドロスに恭順したアレイア太守サティバルザネスが反乱を起こした。エリギュイオスはカラノス、アルタバゾス、アンドロニコスらとともに討伐を命じられ、歩兵6000、騎兵600を率いてアレイアへ向かった。戦いでは、老人でありながらサティバルザネスを一騎討ちで討ち取り、反乱軍を降伏させた。
紀元前329年、傷が癒えないままアレクサンドロスがスキタイ人と戦おうとタナイス川を渡ろうとしたとき、エリギュイオスはヘファイスティオン、クラテロス、側近護衛官らとともに王の幕舎に呼ばれた。彼は占いの凶兆を告げ、思いとどまらせようと説得した。その後の消息は伝わらず、紀元前328年、バクトリア人との戦いで死んだ。バクトリアの逃亡者との戦闘で亡くなり、葬儀は手厚い栄誉をもって営まれたともいわれる。没年を紀元前329年ごろ、場所をサマルカンド付近とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
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