伝記
マザイオスは、紀元前4世紀のアケメネス朝ペルシアの太守で、のちにアレクサンドロス3世の征服後もバビュロニアの太守にとどまった人物である。紀元前328年に死んだ。生年は不明だが、紀元前385年頃とする説がある。ペルシアの高位の貴族で、ダレイオス1世の即位を助けたヒュダルネスの子孫とみられ、長男にヒュダルネスと名づけている。
アルタクセルクセス3世のもとでは、紀元前361年頃にダタメスの後任としてキリキアの太守に任じられ、タルソスなどで彼の名による貨幣が鋳造された。歴史に初めて現れるのは、紀元前351年から350年ごろ、反乱を起こしたフェニキアの討伐に、キリキア太守としてシリア太守ベレシュスとともに当たった場面である。この反乱はシドンの王の主導で、エジプトのファラオが派遣したギリシア人傭兵4,000人を率いたロドスのメントルの軍に、マザイオスとベレシュスは敗れた。のちに大王が自ら大軍を率いてシドンに向かい、町はテンネスの裏切りで引き渡されたが、王は功のあったテンネスを殺させた。マザイオスは紀元前344年から343年以降、シドンの統治者として約11年間、貨幣を鋳造させている。ただし、このマザイオスが後のバビュロニア太守と同一人物かどうかは、必ずしも言い切れないともされる。
のちにキリキアはアルサメスに譲らなければならなかった。ダレイオス3世のもとでは、シリアとメソポタミアを治める太守となり、王の「友」という高い称号も持ったとされる。王の娘バルシネとの婚約も伝えられ、宮廷で重んじられた人物だったらしい。紀元前334年にアレクサンドロスが侵攻したとき、バビュロニアの太守として名が見える。
紀元前331年、ダレイオス3世は彼を送って、マケドニア軍の河川の渡河を阻み、焦土作戦を行うよう命じた。兵力はアッリアノスによれば騎兵3,000とギリシア人傭兵2,000を含む歩兵、クルティウスによれば騎兵6,000とされる。マザイオスはユーフラテス川の東岸で渡河点を押さえ、マケドニア軍の先遣隊が橋を二つ完成させるのを妨げたものの、アレクサンドロスの本隊が進むと騎兵を東へ退き、その途中でメソポタミアの土地に火を放った。ティグリス川でも、先発の騎兵1,000が敗れたため、あるいは敵が渡れまいと油断したため、防衛の任を果たさずに撤退した。その後、騎兵3,000を与えられて道路を封鎖しに向かったが、敵の接近を知ると引き返して王に報告した。このように作戦行動には精彩を欠いた。
しかしガウガメラの戦いでは、ペルシア軍の右翼を率い、パルメニオン率いるマケドニア軍の左翼を崩壊寸前まで追い詰めた。その攻撃は激しく、パルメニオンはダレイオスを追っていたアレクサンドロスに救援を求め、アレクサンドロスは追撃を諦めて引き返さざるを得なかったほどである。軽装の部隊が敵陣の奥の野営地に入り込み、荷物や捕らわれていた王族の女性たちを見つけたとも伝えられる。だがダレイオスの逃走が知れると、マザイオスの軍は散り、彼は州都バビュロンへ退いた。アレクサンドロスが到着すると降伏し、所領を安堵された。紀元前328年にマザイオスが死ぬと、その地位はスタメネスが継いだ。息子は少なくとも3人が確認され、アンティベロスは父の降伏の少しあとに降伏し、アルティボレスとヒュダルネスは紀元前323年にアレクサンドロスの騎兵親衛隊に編入された。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- メレアグロス (将軍) (紀元前323年没)
- バビロニアのディオゲネス (紀元前149)
- ミトラダテス3世 (紀元前54年没)
- Al-Hilli (1326年没)
- ナボナッサル (紀元前732)