伝記
エラシストラトスは、古代ギリシアの解剖学者で、セレウコス1世ニカトールに仕えた王の侍医である。紀元前304年ごろから紀元前250年ごろの人とされる。同じ医師のヘロフィロスとともにアレクサンドリアで解剖学の学派を築き、そこで解剖学の研究を行った。ヒッポクラテス以来の伝統的な体液説に反対し、アレクサンドリアにおけるメソドス派(方法学派)の医学の成立にも寄与したと評価される。
出身地は、一般にはケオス島のイウリスとされる。ただしビュザンティオンのステファノスはコス、ガレノスはキオス、皇帝ユリアヌスはサモスの出身としており、一定しない。大プリニウスは彼をアリストテレスの娘ピュティアスの孫というが、他の古代の著者はこれを裏づけていない。ビザンツの辞典スーダによれば、医師メディオスの姉妹クレトクセナとクレオンブロトスの子とされるが、クレオンブロトスが父か叔父かははっきりしない。師としてはクニドスのクリュシッポス、メトロドロス、さらにテオフラストスの名が挙がる。
最も有名な逸話は、セレウコス1世の宮廷での診断である。紀元前294年ごろ、王の長男アンティオコスが原因不明の病に衰えていった。王は晩年にデメトリオス・ポリオルケテスの若く美しい娘ストラトニケと結婚し、すでに子をもうけていた。医師たちは病の正体をつかめず、エラシストラトス自身も当初は途方に暮れたが、体に異常がないことから心の病、つまり恋の病ではないかと疑った。ストラトニケが近づくときだけ、王子の肌が熱を帯び、顔色が濃くなり、脈が速まるのを見て、推測は確信に変わった。彼はセレウコスに、王子の病は恋ゆえに治らず、その想いはかなえられないと告げた。相手を問われて「私の妻です」と答えると、王は譲るよう説得を始めた。そこで医師が、王子が恋したのが王自身の妃でも譲るかと問うと、王は喜んでと答えた。エラシストラトスは、恋の相手は王の妃だと明かした。王は約束を守り、ストラトニケを息子に譲り、帝国のいくつかの属州も与えたという。この話は多くの古代の著者が少しずつ違う形で伝え、ヒッポクラテスやガレノスなど他の人物にも似た話がある。プリニウスが述べるのがこの話なら、彼は王子を回復させた報酬として100タラントンを受けたとされ、記録に残る最大級の医療報酬になる。
その後の私生活はほとんど分からないが、新しい医学の中心になりつつあったアレクサンドリアにしばらく暮らした。晩年には診療をやめ、解剖学の研究に専念したという。ヘロフィロスとともに大きな成果を上げ、人体の系統的な解剖を行った医師は、ルネサンスまでこの二人だけだったとも考えられている。アウグスティヌス、ケルスス、テルトゥリアヌスらローマの著述家は、二人が犯罪者に対して生体解剖を行ったと伝える。この点は、キリスト教の立場に立つテルトゥリアヌスらから強く非難された。
学説では、心臓の弁を記述し、心臓は感覚の中心ではなくポンプとして働くと結論づけた。心や感覚を脳に置く考え方の発展に貢献したのである。静脈と動脈を最初期に区別した一人で、動脈には空気が満ち、生命の霊気(プネウマ)を運ぶと考えた。身体の基本要素は原子であり、神経を巡るプネウマがそれを生かすとも考えた。感覚神経と運動神経の働きを区別して脳と結びつけ、大脳と小脳についても最初期の詳しい記述を残した。このため、神経科学の創始者の候補とされ、生理学の創始者とみなす人もいる。没年は紀元前248年とされることもある。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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