伝記
ベレンガーリオ1世は、850年頃(845年ともいわれる)に生まれ、924年4月7日に没したイタリア王である。フリウーリ辺境伯の家に生まれ、イタリア王として2度の廃位と復位を経験し、老境に至ってローマ皇帝の座に就いたが、最期は暗殺された。カール大帝から続く最後の皇帝とされ、その後の皇帝位はオットー1世の即位まで40年近く途絶えた。
父はフリウーリ辺境伯エーバーハルト、母はフランク国王ルートヴィヒ1世の娘ギーゼラで、母方でカロリング家の血を引いていた。874年に兄ウンルオッホ3世が死ぬと辺境伯位を継ぎ、スラブ人の襲撃に備える東方防衛の軍事力も得た。880年頃にはアスティ伯スッポーネ2世の娘ベルティラと結婚している。皇帝カール3世(肥満王)のもとで有力な諸侯の一人となり、883年にはスポレート公グイードを討つために軍を率いたが、疫病が広がって退却を余儀なくされた。
887年にカール3世が甥アルヌルフらによって廃位されると、イタリアでは諸侯が王位を争った。ベレンガーリオは母がフランク王女であることを根拠に継承権を主張し、888年にパヴィアの議会で王として認めさせた。ところが、いったん合意を結んでいたグイードが889年にイタリアへ戻って王位を称し、トレッビア川の戦いでベレンガーリオは大敗した。それでもベレンガーリオは、聖別された王位は破門によってのみ無効になるとして退位しなかった。891年にグイードが教皇に迫って皇帝として戴冠されると、東フランク王アルヌルフが介入する契機となり、ベレンガーリオはアルヌルフに忠誠を誓って半島の統治権を得た。898年にグイードの子ランベルトが死ぬと、ベレンガーリオはあらためてイタリア王に選ばれた。
899年にはマジャール人が初めてイタリアを襲い、ベレンガーリオは迎え撃ったがブレンタ川で敗れ、高額の身代金を払わされた。この敗北で王にふさわしくないと見られ、900年にはプロヴァンス王ルイ3世がパヴィアで王に選ばれ、901年に皇帝として戴冠された。ベレンガーリオは902年にマジャール人傭兵を加えた軍でルイ3世を破ってプロヴァンスへ追い返し、905年にルイ3世が再び来ると、これも破ってヴェローナに幽閉し、目をえぐって失明させた。こうして王位を守った。娘ギーゼラをイヴレーア辺境伯アダルベルト1世に嫁がせて和解を図ったものの、その勢力は北部に限られ、中央イタリアのトスカーナ辺境伯アダルベルト2世やスポレート公アルベリーコ1世は独立して統治していた。転機は教皇ヨハネス10世がもたらした。ガリリャーノ川付近のイスラム教徒を追い払うため、教皇は軍事支援を求め、見返りに皇帝位を約束したのである。ガリリャーノの戦いに勝ったベレンガーリオは、915年12月にローマで皇帝として戴冠され、諸侯の忠誠の誓いを受けた。
平穏は922年に終わった。イヴレーア辺境伯らがブルグント王ルドルフ2世を王に立てようと企て、ルドルフ2世は王に選ばれてベレンガーリオの軍と衝突した。ベレンガーリオは敗れ、死体に隠れて命拾いしたと伝えられ、ルドルフの王位を認めた。その後、ルドルフがブルグントに滞在する間にヴェローナへ戻り、5000人のハンガリー人傭兵を送ってパヴィアを占領させた。この際に傭兵が女性や子供を含む市民を大勢殺害したため、多くの家臣から非難を受け、陰謀を企てられることになった。924年、ベレンガーリオはヴェローナでミサの最中に背中を刺されて殺された。外孫に、のちのイタリア王ベレンガーリオ・ディブレーアがいる。
同じ年に亡くなった人物
- エルフウェルド (924年没)
- オルドーニョ2世 (924年没)
- イブン・フザイマ (924年没)
- エドワード長兄王 (924年没)
- ザハリエ・プリビスラヴレヴィチ (924年)
同じ地域に関係する人物
- ジーノ・ファノ (1952年没)
- ピリップス・アラブス (249年没)
- マリア・ピア・デ・サクソニア=コブルゴ=ブラガンサ (1995年没)
- アルボイーノ (572年没)
- アレアルド・アレアルディ (1878年没)