伝記
バビロンのディオゲネスは、セレウキアのディオゲネスとも呼ばれるストア派の哲学者である。紀元前230年ごろに生まれ、紀元前150年から140年ごろに没したとされる。ティグリス河畔のセレウキアに生まれ、アテナイでクリュシッポスの庇護の下に教育を受けた。のちにタルソスのゼノンのあとを継いで、アテナイにあるストア派の学校の学頭となった。弟子にはパナイティオスと、のちに学頭を継いだタルソスのアンティパトロスがいた。ギリシア人でありシリア人でもあるとも説明され、その没年は文献によってやや揺れがある。
学説の面では、おおむねクリュシッポスの見解に忠実に従ったようで、とくに弁証法ではその立場を守り、カルネアデスに弁証法を教えたともいわれる。言語の分野では、音声・表現・語の三つの層を区別し、クリュシッポスと並んで、品詞を固有名詞・普通名詞・接続詞・冠詞に分ける区分に関わったとされる。倫理の分野では、善でも悪でもないものの間での理にかなった選択を研究した。一方で、アカデメイア派や逍遙学派の教説を受け入れる折衷主義への傾きを始め、ストア派の唯物論を強め、世界が周期的な大火で滅びるという説に代えて、アリストテレスの説く世界の永遠性を採ったとも伝えられる。
紀元前155年、アテナイはオロポスを劫掠した罪で500タレントの罰金を科された。この罰金の減免を訴えるため、ディオゲネスはカルネアデス、クリトラオスとともに使節としてローマへ送られた。三人の哲学者はまず多くの私的な集まりで、続いて元老院で、演示弁論を行った。このとき、ディオゲネスは落ち着いた節度ある話しぶりで、聴衆に好まれたという。ディオゲネスの話しぶりが聴衆を喜ばせた最大の理由は、この慎み深さにあったとされる。
キケロは彼を「偉大で重要なストア派の哲学者」と呼び、紀元前150年にはすでに亡くなっていたかのように語っている。ルキアノスが80歳で没したと述べることから、生年は紀元前230年ごろと考えられるが、紀元前140年ごろまで生きたことを示す証拠もある。
著作は多かったが、後代の著者による引用を除いて残っていない。いくつかの著作は題名以上のことがほとんど分からない。題名が知られるものに、『弁証術』『占いについて』『アテナについて』『魂の指導的部分について』『声について』『高貴な生まれについて』『法について』がある。エピクロス派のフィロデモスの著作から、音楽と修辞学についての大部の著作もあったことが分かり、義務や最高善など他の主題を扱ったことも、キケロの数か所の記述から推測できる。フィロデモスの著作は、ヘルクラネウムのパピルス荘で炭化した巻物として見つかっており、その中でディオゲネスはエピクロス本人を除けばどの哲学者よりも頻繁に論じられている。音楽と修辞学についての見解の一部は、フィロデモスがそれぞれの主題で述べた批判的な言葉から復元できる。断片しか残らないフィロデモスの『音楽について』は、ディオゲネスの意見を検討している。その音楽観によれば、ディオゲネスは、音楽は感情を鎮めるだけでなく、魂に調和と均整を生み出すと考えた。食事や運動が体を健康にするように、音楽は心を健康にし、心の病も治せるという。音楽は自然に人を行動へ駆り立てるもので、ラッパのような軍楽器が兵士を勇気づける例が挙げられた。こうして音楽は、人を徳へ導く技芸であると位置づけられたのである。