伝記
レオンナトスは、マケドニア王アレクサンドロス3世に仕えた武将で、ディアドコイの一人である。紀元前356年に、マケドニアに接する小王国リュンケスティスの王家にアンテアスの子として生まれた(生地はペラとされる)。同い年のアレクサンドロスとは幼いころからの友人であった。
ヘタイロイの一人として東方遠征に従い、紀元前331年には、イッソスの戦いで捕らえられたペルシア王ダレイオス3世の妻と娘のもとへ王に遣わされ、ダレイオスが存命であることを伝えた。同年、エジプトのメンフィスでアリュバスが病死したあとを受けて、側近護衛官となった。紀元前328年のある酒宴でペルシア風の跪拝礼が話題になると、従軍していた哲学者カリステネスが反対論を述べ、レオンナトスもまたペルシア人の跪拝の格好を卑屈だとあざ笑った。のちに仲直りはしたものの、東西の融和をはかる王の不興を買ったとされる。
紀元前327年には、アスパシオイ人などの地での戦いでプトレマイオスとともに負傷した。パレイタカイ人の「コリエネスの砦」の攻略では、ペルディッカスやプトレマイオスの部隊と交代で攻略工事にあたった。アリガイオン近くの山での戦いでは、王が三つに分けた軍の一隊を率いて勝利した。紀元前326年にヒュダスペス川を下る際には、三段櫂船の艤装を負担する担当者の一人となった。紀元前325年のマラヴァスの攻囲では、砦の中でひとり戦う王を、ペウケスタスやアブレアスとともにかばって奮戦した。その後はオレイタイ人の土地に、太守アポロパネスの補佐として軍を率いて残り、ネアルコスの艦隊の到着を待った。この間にオレイタイ人が反乱を起こしてアポロパネスは戦死したが、レオンナトスはこれを鎮圧し、沿岸でネアルコスの艦隊と出会って食料と人員を補充した。これらの功績により、東征での勲功はペウケスタスに次ぐ第2位とされ、スサで黄金冠を授けられた。
紀元前323年にアレクサンドロスが死ぬと、ペルディッカス、クラテロス、アンティパトロスらとともに、ロクサネから生まれる子(後のアレクサンドロス4世)の暫定的な後見人に指名された。バビロン会議での帝国分割では、ヘレスポントス・フリュギアの太守となった。この地は黒海とエーゲ海をつなぐ海峡を押さえる要地で、重要な太守領の一つとされる。また、気品ある将校として評判だった一方、プルタルコスは彼を感情が不安定で、突然の衝動に駆られやすい人物として描いたという。
同じ会議で、まだマケドニアの勢力下に入っていないカッパドキアなどを割り当てられたエウメネスは、遠征のためにレオンナトスとアンティゴノスに援軍を求めた。アンティゴノスは断ったが、レオンナトスは受け入れ、兵を率いてバビロニアからフリュギアまでエウメネスに同行した。ところがそのころ、アレクサンドロスの死に乗じてギリシアで反乱(ラミア戦争)が起こり、ラミアに封じ込められたアンティパトロスから救援の要請が届いた。レオンナトスはこれに応じ、カッパドキア遠征の軍の大半を連れてギリシアへ渡った。しかしその裏で、アレクサンドロスの妹でエピロス王の未亡人クレオパトラと結婚し、アンティパトロスの実権を奪うつもりだとエウメネスに語って、味方に引き込もうとした。エウメネスはこれを断り、ペルディッカスのもとへ走った。ラミアでレオンナトスはアンティパトロスを脱出させることには成功したが、自身は敵の騎兵との戦いで戦死し、その軍はアンティパトロスに吸収された。紀元前322年のことである。
同じ年に亡くなった人物
- ナウクラティスのクレオメネス (紀元前322年没)
- キュナネ (紀元前322)
- Leosthenes (紀元前322)
- アリストテレス (紀元前322年没)
- デモステネス (紀元前322年没)