伝記
ミロスラヴは、トルピミロヴィチ家に属するクロアチア王である。945年から949年に没するまで王位にあった。クロアチア王クレシミル1世の長男であり、父の跡を継いで945年に即位した。生年は伝わっていない。
治世についての情報は乏しい。東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の『帝国統治論』は、彼をクロアチアの支配者「ミロスラヴ、クレシミルの子」として記すのみで、その治世は4年間だったとされる。クレシミル1世の時代のクロアチア軍は、騎兵6万、歩兵10万、船200隻ほどを擁したと同書に記されるが、父の死後は王子たちの内戦によって軍事力が大きく落ちたという。ミロスラヴの時代に艦隊は30隻ほどにまで減ったとされ、トミスラヴ1世の時代には200隻近くあった艦隊と比べると、その衰えは著しかった。歩兵と騎兵にも損害が出たと伝えられる。
内戦の相手は、弟のミハイロであった。ミロスラヴの治世の4年間は、彼を支持する者と、弟ミハイロこそ正統な後継者だと考える者との争いの中で過ぎた。この混乱に乗じて、周辺の勢力も動いた。セルビアの大ジュパンであるチャスラヴ・クロニミロヴィチは、東ボスニアからヴルバス川に至る一帯と南クロアチアを手にし、境界をヴルバス川まで進めたとされる。また、ネレトヴァ川流域の諸侯が、ヴィス島とラストヴォ島をクロアチア王国から奪った。アドリア海の島々の一部はヴェネツィアの手に渡ったともいわれる。チャスラヴの進出は、ビザンツ帝国の支援を受けた権力争いが続く中で起きたとされる。
949年、ミロスラヴはクロアチアのバン(総督)であるプリビナによって殺された。プリビナは弟ミハイロの側に立っており、ミハイロの命令で王を討ったともいわれる。プリビナはリカ、クルバヴァ、ガツカといった地域を治めた人物とされる。王の実際の支配がどこまで及んでいたのかは分かっていない。
ミロスラヴの死後、王位には内戦の相手でもあった弟が就き、ミハイロ・クレシミル2世と名乗った。ミロスラヴには男系の子孫がいなかったらしく、王位の回復を求める者は現れなかったとされる。その死は、のちにクロアチアの民族叙事詩の中で、ズヴォニミル王の死にまつわる伝説に反映されたという。かつては権力争いで殺されたクロアチア王はこの二人だけだと考えられていたが、現在の研究者の多くは、確実に言えるのはミロスラヴの殺害だけで、ズヴォニミルは自然死だったと見ている。
同じ年に亡くなった人物
- 陽成天皇 (949年没)
- 藤原忠平 (949年没)
- ジョルト (ハンガリー大公) (949年)
- ムスタクフィー (949年没)
- イマード・ウッダウラ (949年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。