伝記
藤原忠平は、平安時代前期から中期にかけての公卿である。藤原基経の四男で、母は人康親王の娘という。幼くして聡明で知られ、父の基経が極楽寺を建てるとき、仏閣を建てるならばこの地しかないと一所を指さした。そこは果たして絶勝の地で、基経はこのことを心にとどめたという。
宇多天皇の時代は天皇の親政が行われ、長兄の時平と菅原道真らが政治を主導した。醍醐天皇が即位すると時平は左大臣、道真は右大臣として朝政を執ったが、昌泰4年(901年)の昌泰の変で道真は失脚する。忠平は寛平年間に正五位下となって侍従に任じられ、昌泰3年(900年)に参議となったが、叔父の清経と交代し、まもなく右大弁となった。延喜8年(908年)に参議に還任された後は、春宮大夫・左兵衛督・検非違使別当を兼ねている。
延喜9年(909年)、時平が39歳で早世した。ここで忠平は、次兄の仲平を差し置いて藤氏長者となり、従三位・権中納言に叙任され、まもなく蔵人別当と右近衛大将を兼ねた。その後も延喜10年に中納言、翌年に大納言と急速に昇進し、延喜13年(913年)に右大臣の源光が亡くなると太政官の首班に立った。延喜14年に右大臣、延長2年(924年)には左大臣となる。延長5年(927年)には時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させた。農政などに関する忠平の政策は、時平の国政改革と合わせて「延喜の治」と呼ばれる。
延長8年(930年)、病のため醍醐天皇が朱雀天皇に譲位すると、新帝が幼少であったため、基経の没後は長く置かれていなかった摂政に忠平が任じられた。醍醐上皇は朱雀天皇に五つの事を遺言し、その中で左大臣藤原忠平の訓を聞くことを求めたという(延喜御遺誡)。忠平は承平2年(932年)に従一位、承平6年(936年)に太政大臣となり、天慶2年(939年)には准三后となった。天慶4年(941年)に朱雀天皇が元服して摂政を辞したが、詔によって引き続き政務を委ねられ、関白に任じられた。摂政を退いた後に続けて関白に任じられたことが記録で確認できる最初の例とされる。この間には、かつての家人であった平将門と、遠戚の藤原純友による承平天慶の乱が起きたが、いずれも最終的には鎮圧された。
天慶9年(946年)に村上天皇が即位した後も関白として朝政を執った。しかし老いて病がちになり、しばしば引退を願い出たものの、そのたびに慰留された。天暦3年(949年)に病が重くなり、8月14日に70歳で亡くなった。正一位を追贈され、貞信公と諡された。寛大で慈愛が深かったため、その死を惜しまない者はなかったと伝えられる。道真との関係については、『十訓抄』に親交があり左遷にも反対したとの記述があるが、道真左遷の時の忠平は従四位下右大弁にすぎず、後世に付け加えられた話ではないかとする見方もある。兄の時平や源光が亡くなり、醍醐天皇が病気がちになって宇多法皇が再び国政に関わるようになると、忠平は法皇の相談役として急速に出世したともいわれる。35歳で臣下最高位に就き、死去まで35年間その地位を保った。宇多法皇は早くから忠平を好み、人相見が忠平だけを全てに優れた人物と評したと聞いて、いっそう重んじ、皇女の源順子を嫁がせたという。長男の実頼のほか、師輔、師氏、師尹らが生まれた。朝儀や有職故実を記した日記『貞信公記』を残し、和歌は勅撰和歌集に12首が採られ、「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」の歌は小倉百人一首の26番に収められている。
同じ年に亡くなった人物
- イマード・ウッダウラ (949年没)
- 雲門文偃 (949年没)
- 陽成天皇 (949年没)
- Miroslav of Croatia (949年没)
- ムスタクフィー (949年没)
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