伝記
イマード・アッダウラは、ブワイフ朝のファールス政権を築いた人物である。本名はアリー・ブン・ブヤといい、イマード・アッダウラは尊称にあたる。生まれは891年か892年ごろ、没したのは949年12月とされる。934年から949年までファールスのアミール(支配者)として統治し、二人の弟のルクン・アッダウラ、ムイッズ・アッダウラとともに、ライ、シーラーズ、バグダードを拠点とする三者の体制をつくった。
アリーは、イラン北部のダイラムの出身で、身分の低い漁師であったアブー・シュジャー・ブヤの長男である。父は改宗して間もないイスラーム教徒だったと考えられ、息子たちにアラビア語の名がつけられているのもそのためだという。アリーははじめサーマーン朝のナスル2世に仕えて側近となり、928年ごろ、サーマーン朝の総督としてゴルガーンとライを治めていたマーカーン・ブン・カーキーのもとに移った。マーカーンのもとで高い地位を得て、二人の弟ハサンとアフマドにも軍の職を得させた。930年にマーカーンがサーマーン朝に背いてホラーサーンを奪うと、ジヤール朝のマルダーヴィージュに攻められ、タバリスタンを手放した。
アリーと弟たちはマルダーヴィージュの側に移り、まもなくカラジの統治を任された。ところが、ライに立ち寄ったときに、マルダーヴィージュの宰相から、主君が自分を除こうとしていると警告された。急いでライを離れてカラジに入り、これを占拠した。わずかなダイラム人の兵を率いて勢力の拡大を図り、周辺の山地を支配していた異端のフッラム派を討って、その地域を手に入れ、大きな富も得た。兵の忠誠も保ち続けた。
足場を固めるため、次に近くの都市イスファハーンの奪取を決めた。敵の軍勢のほうが多かったが、アリーが城の前に姿を現すと、その大部分が寝返った。だが総督ヤークートは交渉を拒み、マルダーヴィージュが迫ったため、イスファハーンを捨ててジヤール朝についた。アリーはカラジも離れてアッラジャーンを奪い、冬をそこで過ごして、933年の春にファールスへ出陣した。ここでもヤークートが抵抗したが、地主ザイド・ブン・アリーを味方に得て、戦いに勝ち、934年5月か6月にファールスの都シーラーズに入った。
アリーは、マルダーヴィージュに領土を主張されることを防ぐため、アッバース朝のカリフの承認を求め、934年9月か10月にカリフから総督として認められた。しかしカリフの使者が官職の標章を携えて来ても、納めるべき貢納を渋り、2年後に使者がシーラーズで死ぬまで未納のままだった。カリフがマルダーヴィージュと協定を結ぶとアリーはその宗主権を認めざるをえなかったが、935年1月にマルダーヴィージュが暗殺されたため、この承認は長続きしなかった。その後アリーはフーゼスターンの領有を主張してアスカル・ムクラムを占拠し、カリフと和解して、ファールスの領有を認められた。ジヤール朝の支配が崩れ、トルコ人傭兵の多くが加わったことにも支えられ、アリーは弟のハサンにイスファハーンを攻めさせた。続いて弟のアフマドにキルマーンを攻めさせたが、州の大半に権威を認めさせたものの直接の支配は築けず、アリーはアフマドを呼び戻し、のちフーゼスターンへ送った。アフマドはイラクで一連の遠征を重ねたすえ、945年にバグダードに入った。カリフはアフマドにムイッズ・アッダウラの称号を与え、アリーとハサンにもそれぞれイマード・アッダウラとルクン・アッダウラの称号を与えた。948年までにはルクン・アッダウラもイラン中部での地位を固め、ブワイフ朝の領土の境界が明確になった。
同じ年に亡くなった人物
- Miroslav of Croatia (949年没)
- ムスタクフィー (949年没)
- 雲門文偃 (949年没)
- ジョルト (ハンガリー大公) (949年)
- 藤原忠平 (949年没)
同じ地域に関係する人物
- カリーム・ハーン (1779年没)
- シャープール2世 (379年没)
- メロダク・バルアダン2世 (紀元前700年代没)
- ルアルサブ2世 (1622年没)
- ペルシスのアリババザネ (紀元前329)