伝記
ユーグ大公は、カロリング朝末期に勢力を得たロベール家の人物である。898年頃にパリで生まれ、956年6月16日(17日とも)に没した。父は西フランク王ロベール1世、母はヴェルマンドワ伯エルベール1世の娘ベアトリスで、伯父は先々代の王ウードにあたる。パリ伯、ネウストリア辺境侯、フランス公などの地位を占め、各地の修道院長も兼ねた。カロリング家の王を操る形で勢力を築き、長男ユーグ・カペーがカペー朝を開く道を開いたとされる。
922年、西フランクの諸侯がカロリング家の王シャルル3世に反旗を翻し、ユーグの父ロベール1世を王に選んだ。923年、父がソワソンの戦いで没すると、ユーグは勝利をおさめたものの王冠を拒み、王位は義兄のラウールに渡った。一方、囚われたシャルルを手中にしたヴェルマンドワ伯エルベール2世は、ラウールやユーグと争い続け、929年にシャルルが没した後も争いは続いた。936年にラウールが没したとき、ユーグはロワール川とセーヌ川にはさまれた地域のほとんどを押さえ、ネウストリア第一の権力者になっていた。自ら王位を継ぐこともできたはずだが、シャルルの遺児で、イングランドのウェセックスに亡命していたルイを新王に迎えるよう、嫌がる諸侯を説いた。なぜ自ら王とならなかったのか、歴史家たちは不思議がっており、ボゾン家による王位継承を避けたためとも、競争相手の反発を恐れたためとも、父が王位への野心ゆえに早く世を去ったことに衝撃を受けたためともいわれる。
結婚は三度である。922年にメーヌ伯ロジェの娘ジュディットと結婚したが、子のないまま925年に亡くなった。926年にはイングランド王エドワード長兄王の娘エディルドと結婚し、子のないまま937年までに没している。937年に、東フランク王ハインリヒ1世の娘ヘートヴィヒ(エドヴィジュ)と三度目の結婚をした。ヘートヴィヒは、のちの皇帝オットー大帝の妹である。ふたりのあいだには3男2女が生まれ、その中にユーグ・カペーがいる。娘エマはノルマンディー公リシャール1世に嫁ぎ、娘ベアトリスは上ロレーヌ公フレデリック1世に嫁いだ。また、未婚のレインガルド・ド・ディジョンを愛妾とし、庶子エルベールをもうけている。エルベールは聖職者となり、オセール司教を務めた。
この結婚の後、ユーグはルイ4世と争い始め、皇帝オットー大帝に臣従の礼をとって対抗した。945年にルイ4世がノルマン人に捕らえられると、ユーグはその身柄を引き取り、翌年、ランの城塞を引き渡すことを条件に釈放した。948年にはインゲルハイムの教会会議で破門されたが、ランスなどを攻めて応じ、トリーアの会議でも破門は繰り返された。953年になってユーグはようやく折れ、ルイ4世、教会、そして義兄オットー大帝と和睦した。
954年にルイ4世が没すると、ユーグはその子ロテールを真っ先に王として認めた一人となり、ロテールの母ゲルベルガの働きかけを受けて、戴冠に尽力した。その代償として、新王からブルゴーニュ公領とアキテーヌ公領を授けられた。同じ年、ブルゴーニュ公ジルベールはユーグの臣下となり、娘をユーグの子オトンと婚約させた。956年4月8日にジルベールが没すると、ユーグは公領の実質的な主となった。若いロテールの後見を務めるなか、同年6月、エソンヌのドゥールダンで没した。ユーグ・カペーが王位に就いたのは、没後の987年である。
同じ年に亡くなった人物
- マスウーディー (956年没)
- ジルベール (ブルゴーニュ公) (956年没)
- オルドーニョ3世 (956年没)
- テオフュラクトス (956年)
同じ地域に関係する人物
- ジョルジュ・シフラ (1994年没)
- ジルベール・シモンドン (1989年没)
- カミーユ・ポロンソー (1859年没)
- エドモン・ド・ゴンクール (1896年没)
- ロベール3世・ド・ラ・マルク (1536年没)