伝記
張載は1020年、北宋の鳳翔府郿県横渠に生まれた儒学者である。字は子厚といい、郷里にちなみ横渠先生と呼ばれた。若いころは兵法を好み、政治にも強い関心を寄せていたが、范仲淹から諭され、『中庸』を授けられたことを契機に儒学へ向かった。その後、儒教の教えに満足できず、仏教や老荘の思想にも数年にわたって傾倒した。しかし、そこに道を見いだすことはできないと考え、再び儒教の経典を読むようになった。1056年には開封で『易』を講義し、甥にあたる程顥、程頤の兄弟と出会ったとされる。虎の皮に座って講義していた張載が、兄弟の易論に感服して虎皮を片づけ、門人たちにも二人に学ぶよう勧めたという逸話がある。
1057年、38歳で進士に合格し、祁州、鄜州、渭州などで地方官を務めた。1069年の冬には朝廷へ召され、都で官職を得たものの、王安石が進める新法に反対した。翌年、病気を理由に郷里へ戻り、読書、思索、教育に力を注ぐようになった。この時期に自らの学説を展開し、門人へ伝えた。その思想は『易』と『中庸』に依拠し、万物を気の集散によって説明するものである。気は静止した物質ではなく、陰陽の働きによって絶えず変化する。散って希薄になれば目に見えず、凝集すれば固体や液体となり、岩や木、人間などの形を取ると考えた。見えるものが見えなくなることは、その存在が消滅することを意味しないという。
張載は、無形の「太虚」と有形の気を別々の実体とせず、一つのものの二つのあり方としてとらえた。宇宙の変化や運動も、外から加わる最初の力によるのではなく、気それ自体の働きによって生じるとした。すべてが同じ気から成るとしても、一つ一つの存在が単なる繰り返しになるわけではない。人の心にまったく同一のものがないことも、その例として挙げている。また人間の性を「気質の性」と「天地の性」の両面から論じた。道徳の根源を天地の性に求め、気質を浄化することによってそこへ帰るよう勧めたのである。学ぶ者には、天地の精神を明らかにし、人々の生活を支え、古代の聖人から途絶えかけた学問を受け継ぎ、後の世に平和を開くという四つの目標を示した。個人の修養にも社会生活にも礼を重んじ、仏教と道教に対して儒教の独立した立場を明らかにしようとした。仁を人間同士の関係にとどめず、聖人が宇宙と一体をなすという考えへ広げたことも、その教えの一面である。
1076年には代表作『正蒙』を完成させ、門人に示した。晩年には再び朝廷へ召されたが、病のため辞職し、1077年、横渠へ帰る途中で死去した。主な著作には『西銘』『東銘』『経学理窟』『易説』もあり、詩文や語録とともに『張氏全書』に収められた。ただし失われた文章も多い。死後、門人の多くは程氏兄弟の学派に加わり、張載の思想は二程や朱熹を通じて伝えられた。朱熹は張載を道学の創始者の一人として尊び、その文章を『近思録』にも採録した。「心が性と情を統べる」という見解については、二程にも勝ると評価している。1241年には孔子廟に祀られた。太虚をめぐる学説は宋学の主流にはならなかったが、後世の王陽明、王夫之、日本の大塩平八郎にも影響を及ぼした。
同じ年に亡くなった人物
- ゲーザ1世 (ハンガリー王) (1077年没)
- アグネス・フォン・ポワトゥー (1077年没)
- 邵雍 (1077年没)
- ルーセル・ド・バイユール (1077年没)
- アブル・ファドル・バイハキー (1077年没)