伝記
小野道風は、平安時代前期から中期にかけての貴族であり能書家である。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男にあたり、最終の官位は正四位下・内蔵権頭であった。尾張国春部郡上条(現在の愛知県春日井市松河戸町)で里の女を母に生まれたとする伝承があるが、史実としては確認できない。南北朝期の『麒麟抄』や江戸時代前期の天野信景らの考証によって広まった説である。
醍醐朝の延喜5年(905年)、わずか12歳で大嘗会の屏風の色紙形を書いた。延喜20年(920年)に能書を選ばれて非蔵人となり、翌年には右兵衛少尉に任じられた。延長3年(925年)に少内記となった年、勧修寺で営まれた醍醐天皇の生母・藤原胤子の法要で、供養願文の『法華経』の清書役に抜擢され、宮廷での能書活動が盛んになる。延長4年(926年)には興福寺の寛建が入唐する際、道風の書いた行書・草書各一巻が携えられており、すでに日本を代表する能書家であったことがうかがえる。延長5年(927年)には円珍に智証大師の諡号が贈られた際の勅書を浄書し、延長6年(928年)には清涼殿の白壁への揮毫や、内裏の屏風に大江朝綱の漢詩を書く仕事を果たした。この屏風の下書きが『屏風土代』である。同年、醍醐寺の西大門・東大門の額を書き、南大門にも道風の草書が掲げられた。得意の草書を選んだ天皇の眼力に、道風は「あな、賢王や」と感激したという。
朱雀朝では従五位下に叙され、内蔵権助や右衛門佐を務めた。ところが村上朝の天慶9年(946年)、右衛門府の官人が会昌門を開かなかった咎で、右衛門佐の道風も贖銅2斤の刑に処された。翌天暦元年(947年)には、障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に加わらなかったとして解官されている。それでも、その後も屏風の色紙形や願文の清書などの仕事は続いた。天徳2年(958年)には山城守任官か近江権守兼任を求める奏状を村上天皇に奉ったが、願いは叶わなかった。その文章は『本朝文粋』に収められている。同じ年、眼病の進行で細字が書けず、乾元大宝の銭文の字様は書けなかった。それでも第一の能書という評判は変わらず、天徳3年(959年)の清涼殿の詩合では、天皇の望みで左右両方の清書を引き受けた。右方は源延光の邸に強引に連れ込まれ、酒でもてなされたうえでの清書だったが、「羲之再生」と絶賛されたという。
天徳4年(960年)に内裏が焼けると、木工頭の道風は再建の激務に健康が耐えず、10月には内蔵権頭に遷った。応和元年(961年)には再建された内裏の承明門の額や殿舎の額を揮毫している。晩年は健康を損ね、65歳ぐらいから目が悪くなり、67歳ぐらいには言葉も不自由になったという。この頃からの文字はのびやかな線を失い、後世「道風のふるい筆」と呼ばれた。康保3年(966年)12月27日に没し、享年は73であった。
和様書道の基礎を築いた人物と評され、藤原佐理・藤原行成とともに「三跡」と称される。その筆跡は「野跡」と呼ばれる。作品には国宝の『三体白氏詩巻』や『智証大師諡号勅書』がある。『後撰和歌集』には5首が採られた。没後も評価は高まり、「書道の神」として祀られるに至った。空海筆の額字を「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したともいう。柳に飛びつく蛙を見て奮起した逸話は、江戸時代の浄瑠璃『小野道風青柳硯』から広まったとされ、史実かどうかは不明である。
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