伝記
藤原朝忠は、平安時代中期の公家・歌人である。延喜10年(910年)の生まれで、藤原北家高藤流、右大臣・藤原定方の五男にあたる。母は藤原山蔭の娘とされ、観子とも親子ともいう。最終官位は従三位・中納言で、土御門中納言または堤中納言と号した。小倉百人一首では「中納言朝忠」と呼ばれ、三十六歌仙の一人にも数えられる。
若い頃から和歌の才を示したとされ、延長2年(924年)に左近衛将監となり、翌年には春宮・寛明親王の東宮侍従を務めた。延長4年(926年)に従五位下に叙され、延長5年(927年)には侍従に任じられた。延長8年(930年)に朱雀天皇が即位すると五位蔵人となり、蔵人を務める傍ら、右兵衛佐や左近衛権少将といった武官を歴任した。承平6年(936年)に従五位上、天慶4年(941年)に正五位下と昇り、この間には播磨権介や丹波介も兼ねている。天慶6年(943年)に従四位下に叙されて少将と蔵人を辞し、内蔵頭に遷った。
天慶9年(946年)には近江守に任じられて地方官に転じたが、同年11月、村上天皇即位の大嘗会で悠紀方の和歌を詠んだ功により従四位上に昇った。天暦5年(951年)に左近衛中将として京官に復し、翌天暦6年(952年)には参議に任じられて公卿に列した。議政官を務める傍ら、伊勢権守、備前守、大宰大弐、讃岐権守などを兼ねた。天暦10年(956年)に正四位下となり、天徳元年(957年)末には右衛門督と検非違使別当を兼ねた。応和元年(962年)には造営の功を賞されて従三位に昇り、応和3年(963年)に中納言に至った。
康保2年(965年)10月頃から中風のために政務に就くことが難しくなり、同年11月には右衛門督と検非違使別当の兼務を辞した。翌康保3年12月2日に薨去し、享年は58であった。西暦では967年1月にあたる。歌人としては『後撰和歌集』に4首が入り、以下の勅撰和歌集に合わせて21首が採られた。家集に『朝忠集』がある。小倉百人一首に採られた「逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし」は、『天徳内裏歌合』で六番中五勝した中の一首である。笛や笙にも秀でていた。
家族では、妻は藤原忠舒の娘で、男子に藤原理兼がいる。娘の藤原穆子は左大臣・源雅信の正室となり、その娘の源倫子は摂政・藤原道長の正室となった。このため関白・藤原頼通は朝忠の曾孫にあたり、後一条天皇と後朱雀天皇は玄孫にあたる。もう一人の娘は源重信の妻となった。なお、肥満に悩み水飯を勧められたがかえって太ったという逸話は、本来は藤原朝成のことで、朝忠のものとするのは後世の勘違いと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- ダフ (スコットランド王) (967年)
- Vushmgir (967年)
- 小野道風 (967年没)
- ムイッズ・ウッダウラ (967年)
- アル=カビーシー (967年没)
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