伝記
ヴィルヘルム1世は、1797年3月22日、プロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルムと皇太子妃ルイーゼの次男としてベルリンで生まれ、後に第7代プロイセン国王、初代ドイツ皇帝となった。同年11月に父が国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世に即位した。ナポレオン戦争中にはロシア帝国に亡命し、ケーニヒスベルクやメーメル、サンクト・ペテルブルクなどで暮らした。1807年にプロイセン軍に入隊し、1814年に大尉として解放戦争に従軍して戦功をあげ、鉄十字章を受けた。この戦いを通じてナポレオンを生んだ革命を激しく憎み、革命から王権を守れるのは軍隊だけだと確信するようになったという。1818年に近衛歩兵旅団の少将、1825年には近衛軍団の中将となった。青年時代は長身と容姿で社交界の浮名を流したが、遠縁の公女との恋愛結婚は実現せず、1829年にザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公女アウグスタと結婚し、のちのフリードリヒ3世とルイーゼの二子をもうけた。
1840年に子のない兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が即位すると、第一位の王位継承権者となった。1848年3月にベルリンで三月革命が起こると、宮廷内の軍支持者の代表格として市民の最大の憎悪の対象となり、イギリス女王に会見する任務を受けて、3月19日に亡命に近い形で国を離れた。妻も兄も見捨てて逃げたと自責に苦しんだが、駐英大使に励まされて立ち直ったという。革命の勢いが衰えた後に帰国し、バーデンなどで起きた憲法制定運動の蜂起の鎮圧を命じられ、約六万の軍を率いて出征した。捕虜にした革命家や志願兵を無差別に処刑するなど徹底的に鎮圧し、民衆の憎しみを呼び起こして、「榴弾王子」とあだ名された。
1849年からは自由主義的な妃アウグスタの影響で自由主義派の学者と親交を深め、自由主義的保守派が周囲に集まった。1857年に兄王の精神病が悪化すると、保守派の「カマリラ」が自由主義政策を恐れて摂政の設置に応じず、憲法に規定のない「国王代理人」に就けられた。彼はこれを神から与えられた使命と感じて独自の政策を避け、1858年10月に至って摂政に任じられた。1861年1月2日、兄王の崩御により六十三歳で国王に即位した。ローンに立案させた軍制改革をめぐって衆議院との対立が激化し、退位を考えるまでになったが、ビスマルクの無予算統治で改革を断行する覚悟に期待を抱き、1862年に彼を首相に任命した。
以後はビスマルクの主導で事態が動いた。1864年の対デンマーク戦争では、アウグステンブルク公の独立公国構想を強く支持したが、ビスマルクの説得で断念した。1866年の普墺戦争でオーストリアを下し、ドイツ連邦は解体され、北ドイツ連邦の主席に就いた。講和交渉ではビスマルクと一時対立したが、最終的に説得を受け入れた。スペイン王位問題には消極的だったが、バート・エムスで保養中、フランス大使から弁明を求められてこれを拒み、ビスマルクはこの一件を双方の民族感情を煽る形で発表した。普仏戦争に勝利して、1871年1月18日にドイツ帝国が成立し、ヴィルヘルムはドイツ皇帝に即位した。
皇帝としては、ビスマルクの文化闘争がプロテスタントにも及ぶときには歯止めをかけ、暗殺未遂事件を機に1878年に制定された社会主義者鎮圧法は積極的に支持した。自由主義的な皇太子フリードリヒを疎み、保守的な孫のヴィルヘルムに期待を寄せたという。1888年3月9日に崩御し、皇太子がフリードリヒ3世として即位したが、三か月ほどで亡くなり、位は孫のヴィルヘルム2世に引き継がれた。
同じ年に亡くなった人物
- マシュー・アーノルド (1888年没)
- ニコライ・プルジェヴァリスキー (1888年没)
- ギュスターヴ・ブーランジェ (1888年没)
- メアリー・ジェーン・ケリー (1888年没)
- James Robertson (1888年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム・ゾルフ (1936年没)
- ハイナー・カーロウ (1997年没)
- フランチェスカ・ルブラン (1791年没)
- ヨハネス・ハインリヒ・シュルツ (1970年没)
- アルフレート・デルプ (1945年没)