伝記
スヴャトスラフ1世は、キエフ大公国の大公(在位945年〜972年)である。キエフ大公イーゴリ1世とオリガの子で、942年頃に生まれた。ハザール王国を滅ぼし、ルーシの最大版図を築いたが、生涯を戦陣で過ごし、最後はペチェネグ族に討たれた。
945年に父がドレヴリャネ族に殺害されると大公位を継いだが、幼少のため母オリガが摂政となった。母がドレヴリャネ族に凄惨な復讐を行った際には、幼い彼も軍に加わり、開戦の合図に敵へ最初の槍を投げたと年代記は伝える。少年期のことはほとんどわからないが、ヴァリャーグ人の傅役アスムドに養育されたとされる。母は東ローマでキリスト教に改宗したが、彼は生涯異教徒のままで、キリスト教徒になれば従士団に嘲られると恐れたと年代記は記す。
963年か964年に成人すると、積極的な拡大政策に乗り出した。使者を諸国に送って「汝らと戦いたい」と告げ、従士団を率いて次々に攻め入ったという。政務よりも戦陣を好み、遠征には荷車も鍋も持たず、肉を煮ずに炭火であぶって食べ、天幕もなく馬の敷物を寝床にしたと記される。東ローマ側の記録は、中背で頭は禿げ、片側に高貴な身分を示す一房の髪を残し、肩幅が広くたくましい、近寄りがたい風貌の人物だったと伝えている。白い服を好み、その服は部下のものより清潔だったといい、赤い宝石と二つの真珠のついた大きな金の耳飾りを片耳に着けていた。
965年に東方へ兵を進め、ヴャチチ族がハザールに従っていることを知って遠征を決意した。テュルク系のグズ族と結び、ハザールの軍勢を破って首都イティルを破壊し、主要都市を次々に占領した。これによってハザール王国は事実上崩壊したが、空白となった草原には新たにペチェネグ族が進出した。征服は一般に966年とされるが、968年とする資料もある。
やがて西へ向かい、967年、東ローマ皇帝ニケフォロス2世の思惑もあってブルガリアに侵攻し、ドナウ北岸の多くの城塞を占領して、ペレヤスラヴェツに入った。ペチェネグ族が留守のキエフを包囲すると、急ぎ戻って撃退したが、そこで母と貴族に、キエフからペレヤスラヴェツへ居を移すと宣言した。母は反対しつつも、自分が死ぬまで待つよう懇願し、三日後に世を去った。彼は長男ヤロポルクをキエフに、次男オレーグをドレヴリャネ族の地に、三男ウラジーミルをノヴゴロドに分封して、バルカンへ移った。
971年に再びブルガリアへ侵攻したが、東ローマ皇帝ヨハネス1世の反撃を受け、アルカディオポリスで敗れ、シリストラに2か月籠城したのち講和して、バルカンから兵を退いた。帰路のドニエプル川の早瀬でペチェネグ族が待ち構えていたため、河口付近で冬を越し、翌972年春、強行突破を試みて船団を襲われ、軍はほぼ全滅して彼自身も殺された。ペチェネグの首長クリャは、その頭蓋骨に金箔を貼って酒盃にしたと伝えられる。彼の死とともにルーシの「英雄時代」も終わったとされ、長男ヤロポルクが大公位を継いだが、後継が定まっていなかったため、三兄弟の間で争いが起き、ヤロポルクとオレーグが死に、ウラジーミルが唯一の支配者になった。年代記では、彼はスラヴ系の名を持つ最初のルーシの君主として記される。
同じ年に亡くなった人物
- アンドレゴト・ガリンデス (972年没)
- ヨハネス13世 (ローマ教皇) (972年没)
- ボレスラフ1世 (ボヘミア公) (972年)
- リュートプランド (クレモナ司教) (972年没)
- タクショニュ (972年)
同じ地域に関係する人物
- ヴァレリー・ロバノフスキー (2002年没)
- レオニード・ジャボチンスキー (2016年没)
- ウラジミール・ヤシュチェンコ (1999年没)
- Yakov Punkin (1994年没)