HISTORICAL PERSON · 974年没

石重貴

五代十国時代の後晋の第2代で最後の皇帝。石敬瑭の養子で942年に即位し、契丹への臣下の礼を廃して対決したが、946年に契丹の3度目の侵攻で開封が陥落して降伏し、後晋は滅んだ。

生涯
974年没
死亡地
中華人民共和国(遼寧省 / 朝陽市)
出生地
中華人民共和国(太原市)
出典
世界地図
中華人民共和国(遼寧省)

伝記

石重貴(せき じゅうき)は、五代十国時代の後晋の第2代にして最後の皇帝である。『新五代史』では出帝と記される。914年に晋陽(太原)で生まれ、974年7月10日に没した。

父は石敬儒、母は安氏とされる。石敬儒は李存勗に仕えた騎兵の将校だったが早くに亡くなり、弟の石敬瑭が石重貴を養子にした。石敬瑭は後唐の節度使を歴任し、そのたびに石重貴を連れて任地へ赴き、役目を与えたという。容貌は石敬瑭に似ていたが、背丈は低かったと伝えられる。932年、石敬瑭が河東節度使に就くと、王震に『礼記』を教えさせたが、石重貴は理解できず「これは我が家の仕事には関係がない」と述べたという。また、将軍張従訓の長女を妻に迎えたが、この妻は石重貴の即位前に亡くなっている。

936年、石敬瑭が後唐の末帝李従珂に対して挙兵すると、李従珂は石敬瑭の親族を処刑した。後唐の将軍張敬達による太原包囲の際には、石重貴は自ら石敬瑭の守りを助けた。やがて契丹の太宗が救援に来て張敬達の軍を破り、石敬瑭を中原の皇帝とした。後晋の成立である。太宗は石敬瑭の息子たちを見て、石重貴を指して「この目の大きな子でよい」と言い、石重貴は北京留守・太原尹・河東節度使に任じられて太原を守った。937年に開封へ呼ばれて禁軍の将軍となり、938年に鄭王・開封尹とされた。941年には斉王・広晋尹・功徳使に転じた。同年末、石敬瑭が鄴都へ向かった際には、開封の留守を任されている。

942年6月に石敬瑭が崩じると、石重貴は後晋の第2代皇帝に即位し、開運と改元した。在位中は各地で蝗害が起こり、逃げ出す民や飢える民が大量に出た。また、景延広の建議により契丹への臣下の礼を廃し、契丹に対して対決の姿勢を明確にした。これに対し契丹は後晋に侵攻したが、後晋は契丹軍を2度にわたって防いだ。

しかし、開運3年(946年)の契丹の3度目の侵攻で都の開封は陥落し、石重貴は契丹軍に降伏した。後晋はここに滅亡した。降伏した石重貴は、太宗(耶律堯骨)から負義侯に封じられ、北方へ連れ去られて、のちに建州で没した。

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