伝記
フリードリヒ1世は、バル伯および上ロートリンゲン公(在位942年から978年)で、978年5月18日に没した。生年は912年ごろともされるが、910年から915年ごろとも、942年ごろともいわれ、はっきりしない。ビドガウ伯でロタリンギア宮中伯のヴィゲリヒと、西フランク王ルイ2世の孫クニグンデの間に生まれた。カール大帝の子孫にあたり、その6世代目とされる。
954年、ユーグ大公(パリ伯)とザクセン家のハトヴィヒの娘ベアトリクスと結婚した。ハトヴィヒはオットー1世の姉妹にあたる人物である。持参金として、ロレーヌにあるサン=ドニ修道院の収入を受け取り、その中にはサン=ミエル修道院も含まれていた。ベアトリクスはのちのフランス王ユーグ・カペーの姉妹でもある。フリードリヒはシャンパーニュ方面からの侵入を防ぐため、960年にオルネン川沿いに城を築き、没収されていた領地を占領した。フランス王国とドイツ王国の境にあたる地のファンスにも要塞を築いたという。さらにトゥール司教と領地を交換し、こうして少しずつまとまった領地を築いて、それが自身の封土であるバル伯領となった。彼はアルデンヌ家の分家、アルデンヌ=バル家の家祖となった。
当時のロートリンゲン公領は、ケルン大司教ブルーノが支配しており、ブルーノは大公と呼ばれていた。ブルーノは神聖ローマ皇帝オットー1世の弟で、フリードリヒの妻にとっては叔父にあたる。959年、ブルーノはオットー1世と協調して公領を二つに分けた。北のムーズ川流域は下ロートリンゲン、南のモーゼル川流域は上ロートリンゲンとなった。ゴットフリート1世が下ロートリンゲンの副伯(副公)に、フリードリヒ1世が上ロートリンゲンの副伯(副公)に任じられた。977年にブルーノが死去すると、フリードリヒとゴットフリートはそれぞれ公爵となった。
公爵としては、サン=ディエ=デ=ヴォージュとモワンムティエの修道院改革を後押しし、その監督にあたった。兄弟のひとりジークフリートは上ロートリンゲンに領地を持ち、岩山に城を築いた。この城の周りに発展したのがルクセンブルクの町で、ジークフリートは初代ルクセンブルク伯となった。
子には、972年から978年のあいだに没したハインリヒ、のちにヴェルダン司教とメス司教を務めたアダルベロン2世(958年から1005年)、父の跡を継いでバル伯および上ロートリンゲン公となったディートリヒ1世(965年ごろから1026年または1027年)、娘のイダがいる。イダはハプスブルク家の祖ラートボトに嫁いでその城を築かせたとされるが、この系譜は近年の歴史家には認められていない。
同じ年に亡くなった人物
- 李煜 (978年没)
- ログヴォロド (978年)
- エドワード殉教王 (978年没)
- 敬順王 (978年没)
- イッズ・アッ=ダウラ (978年没)
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