伝記
李煜は、十国の一つ南唐の第3代で最後の国主である。字は重光、号は鍾隠で、後主とも呼ばれる。もとの名は李従嘉といい、937年、第2代の元宗李璟の六男として生まれた。母は鍾皇后。瞳が二重の重瞳であったという特徴が伝えられ、幼い頃から詩文や書画に才能を見せた。君主としての政治的能力はほとんどなかったとされるが、詞という韻文のジャンルを大成した人物として名高く、父の李璟とともに南唐二主と並び称される。
若い頃の李従嘉は、王位から遠い立場にあった。父は弟の李景遂を太子に立てており、兄たちも早世が続いた。長兄の李弘冀は陰気な性格で、叔父の太子李景遂を政敵と見なし、同母の弟である李従嘉も嫌っていたという。李従嘉は目立たぬよう努め、詩や絵画、音楽に打ち込み、読書を好んだ。17歳のとき、一つ年上の宰相周宗の娘、周娥皇と結婚した。娥皇は教養が高く音楽や芸術にも通じており、二人は睦まじかったという。955年に後周が南唐に侵攻し、戦いは958年春まで続いた。李璟は長江以北の諸州を割譲し、皇帝の称号を捨てて国主に格下げした。同じ年、李弘冀が叔父の李景遂を毒殺し、その数か月後、959年に自らも没した。こうして李従嘉は後継者と目され、呉王に封ぜられた。鍾謨のように、放縦で軟弱だとして弟の李従善を推す臣下もいたが、李璟はこれを不快とし、鍾謨を降格させた。
961年、病がちの李璟は洪州(現在の江西省南昌市)に遷都し、李従嘉を太子として、元の都江寧(現在の南京)で監国として国事を代行させた。6月に元宗が崩じると江寧で即位し、李煜と改名した。即位の際には、李従善が遺詔をめぐって動いたが、宰相の徐遊がこれを拒んで李煜に打ち明けたため、李煜は弟を少し降格させただけで済ませた。同じ年、北方では後周に代わって宋が立っていた。李煜は高官の馮延魯に極めてへりくだった書簡を持たせて即位を知らせたが、即位に際して帝権の象徴である金の鶏を作ったことが宋の太祖趙匡胤の怒りを買い、使者が「怪しい鳥」だと釈明してようやくおさめたという。内政では鉄銭を導入して経済を混乱させ、重用した韓熙載らの臣下に政務を任せきりにした。それでも江南の豊かな経済力を背景に、詞を詠み、絢爛豪華な宮廷生活と文芸活動を続けた。971年には宋に配慮して国号を唐から江南に改めた。
974年、宋は李煜に来朝を求めたが、これを拒んだため、侵攻の口実を与えることになった。975年12月に江寧は陥落し、李煜は北へ連行されて、976年1月に開封に到着した。以後は軟禁の身となり、違命侯に封じられ、のちに隴西公となった。978年、故郷を想う詞を作ったことを太宗に知られ、牽機薬という、体を何度も折り曲げて苦しみ死に至る猛毒を盛られて殺されたと伝えられる。没年は978年8月13日とされ、死後に呉王を追贈された。
文芸の才は詞に限らず、書や絵画にも及んだ。書法は「金錯刀」と呼ばれ、微妙な震えの表現が特徴である。当時散逸していた唐の玄宗編曲の「霓裳羽衣の曲」の復元にも力を注いだ。文房具の発展にも寄与し、玉の筆、龍尾硯、名職人李廷珪の墨、宮中の建物の名をとった澄心堂紙がよく知られ、専門の部局を設けて作らせたほどであった。詞の作風は亡国の前後で大きく異なる。宮中にあった頃は花鳥風月や男女の機微を詠んだ華やかな作が多かったが、幽閉生活のなかで生まれた作は後悔や望郷の念を帯びた哀切な表現となり、芸術的にいっそう高まった。
同じ年に亡くなった人物
- ログヴォロド (978年)
- エドワード殉教王 (978年没)
- イッズ・アッ=ダウラ (978年没)
- 敬順王 (978年没)
- フリードリヒ1世 (上ロートリンゲン公) (978年没)