HISTORICAL PERSON · 紀元前300没

クサンティッポス

スパルタ出身の傭兵将軍で、第一次ポエニ戦争でカルタゴに雇われた。軍を訓練して前255年のテュニスの戦いでローマ軍を潰走させ、執政官レグルスを捕らえた。その後ギリシアへ帰ったと伝わる。

生涯
紀元前300没
死亡地
—
出生地
ギリシャ共和国(ペロポネソス / スパルタ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(ペロポネソス)

伝記

クサンティッポスは、スパルタ(ラケダイモン)出身の傭兵将軍である。第一次ポエニ戦争のとき、カルタゴに雇われてその軍を率い、それまで不振だったカルタゴに大きな勝利をもたらした。ラコニア地方のアミュクライの出身とする記述もある。紀元前255年のチュニスの戦いでローマ軍を破り、執政官マルクス・アティリウス・レグルスを捕らえたことで知られる。

ディオドロスは、彼をカルタゴが集めた小さなスパルタ人傭兵団の指導者と伝える。アッピアノスによれば、カルタゴ人は自軍の敗北を指揮官の無能のせいと考え、スパルタに将軍を求めたという。これに対しポリュビオスの語る経緯は異なる。傭兵の募集役がギリシアから多数の兵を連れて到着した中に、スパルタ式の教育を受け軍事の経験も積んだクサンティッポスがいた。彼は先の敗戦の状況やカルタゴ軍の装備、騎兵と象の多さを知り、カルタゴ人はローマ人に負けたのではなく、無能な指揮官のせいで自滅したのだと友人たちに語った。この言葉はやがて指導者たちの耳に入り、彼は召喚されて意見を述べ、説得に成功して軍を任された。当初はその力量を危ぶむ声もあったが、軍を城外へ出して隊列を整え、規則どおりに号令をかけて動かすと、前任の将軍たちとの違いは歴然としていた。兵士たちは戦いを待ちかねて歓声をあげ、彼の指揮なら負けないと信じたという。この軍は歩兵1万2千、騎兵4千、象は100頭ほどであった。

ポリュビオスはチュニスの戦いの布陣もクサンティッポスのものとしている。市民の密集隊を中央に置き、経験豊かな傭兵が右翼を固め、象は密集隊の前方の適当な距離に並べ、両翼には騎兵と、それを支える傭兵の歩兵を置いた。数で勝る騎兵は、ローマの騎兵を圧倒したうえで敵の側面を攻めた。ローマ軍の左翼では約2千人が傭兵を押し返し、陣営の向こうまで追ったが、中央のローマ歩兵は象の攻撃に耐えたものの、カルタゴの密集隊に当たった部隊は簡単に破られた。最後に騎兵が両側から突入して敵の結束を破壊し、ローマ軍はほぼ全滅した。逃げられたのは左翼の2千人だけで、ローマ艦隊に収容された。レグルスは捕虜となった。

最期については伝承が分かれる。ポリュビオスは、この大勝の後まもなくクサンティッポスが船で故国へ帰ったとする。成功は深い嫉妬と激しい中傷を招くもので、土地の者なら親族や友人に守られるが、異国人は命を落としかねず、帰国は賢明な判断だったと述べる。別の説も後で語ると予告したが、その部分は伝わっていない。ディオドロスは、帰途にリリュバイオンに立ち寄ってローマ軍を破ったが、町の人々が嫉妬から水漏れする船を与え、アドリア海で沈んだとする。アッピアノスは、カルタゴ人が栄誉を与えるふりをして軍船で送り出し、船長たちに彼と仲間を海へ投げ込ませたと伝える。研究者ラゼンビーは、ディオドロスの話は到底ありえないとみる。前245年にプトレマイオス3世がクサンティッポスという人物を新たに得た属州の総督にしたという記録もあるが、同一人物かどうかには異論がある。

シリウス・イタリクスによれば、彼はこの戦争中にカルタゴ人女性バルケとの間に三人の息子をもうけた。エウマコス、クリティアス、そして父と同名のクサンティッポスで、いずれもハンニバルの軍に仕え、ティキヌスの戦いで、ローマ人の三兄弟と刺し違えて命を落としたという。
彼を主人公とした小説に、ユッカ・M・ヘイッキラ作の『カルタゴ』がある。

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