伝記
キュプセロスは、紀元前7世紀のコリントスの僭主である。紀元前657年から紀元前625年まで在位したとされ、コリントス最初の僭主として知られる。母ラブダは支配層バッキアダイ一族の出身で、父エエティオンはこの一族に属さなかった。
当時のコリントスは、交易の発展によって大いに栄えていた。二つの港を持ち、ペロポネソス半島とギリシア本土を結ぶ陸路の要でもあり、イストモス競技祭も人々を集めた。しかし支配していたのはバッキアダイ一族で、一族内でしか結婚を認めず、商業で富を得た階層に政治的な権力を与えようとしなかった。以前の王テレステスが親族に殺されたのち、王は置かれず、一族の者が一年交代で最高の地位を務める体制が続いていた。
キュプセロスの誕生にはデルフォイの神託にまつわる逸話がある。エエティオンの子がバッキアダイを滅ぼすという不吉な神託が下り、一族は生まれた赤子を殺そうとした。刺客たちがラブダの家を訪れ、赤子を抱いたところ、赤子がにっこりと微笑んだため、哀れみを覚えて手を下せずに出ていった。やがて彼らは戻ってきたが、企みを知ったラブダは赤子を櫃の中に隠してやり過ごした。ギリシア語で櫃を意味する語にちなんで、子はキュプセロスと名付けられたという。後に彼はこの櫃をオリュンピアに奉納したとされる。この話はヘロドトスが、コリントス人ソクレスの僭主制を非難する演説として伝えるもので、キュプセロスが統治の正当化のためにつくらせた宣伝だったとみる見方もある。ただしオリュンピアのヘラ神殿に、その櫃とされる木箱があったことは知られている。
成長したキュプセロスは、アルゴスやケルキュラとの戦争で不満を募らせた市民を背景に、軍の指揮を担う軍司令官の立場にあって兵士たちへの影響力を用いた。紀元前657年、バッキアダイの者たちをデルフォイの神託を伺うためと称して市外へ出し、そのまま追放して僭主となった。そのとき彼はゼウスに、政権を握ったらコリントス人の全財産を奉納すると約束した。実権を握ると市民に財産表を書かせ、その10分の1を取り上げて奉納し、これを10年間繰り返した。こうして市民を無一文にせずに約束を果たしたという。一方、多くのコリントス人を殺し、追放し、財産を没収するなど苛酷な支配を行ったとも伝えられる。同時代に近い記述は彼を好意的に描くが、後の時代の記述は圧政として描く傾向があった。それでも民衆の人気取りに努め、護衛兵を持たなかったといわれる。敵を追放した際には、彼らがギリシア北西部に植民市を建てることを許した。イタリアやシチリアの植民市との交易も拡大し、コリントスの陶器が大量に輸出されたことが、繁栄が続いたことを示している。ギリシア北西部の植民市は息子たちが治めたとされ、デルフォイとオリュンピアの神殿にも大きな奉納を行った。デルフォイに建てた宝庫は、ヘロドトスの時代にも残っていたらしい。
統治は30年前後に及び、没した後は息子ペリアンドロスが僭主の地位を継いだ。ペリアンドロスは古代ギリシアの七賢人の一人に数えられた人物である。ゴルゴスの子にも、アンブラキアで同名のペリアンドロスがいたとされる。次男ゴルゴスはコリントスの植民市アンブラキアの僭主となったとされる。追放された者の一人デマラトスは莫大な富を持ち、移り住んだティレニアの都市で力を振るい、次の世代にはその子がローマの王になったと伝えられる。
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