伝記
アダルベロンは、10世紀後半のランス大司教である。925年ごろに生まれ、989年1月23日に没した。ロタリンギアの有力なアルデンヌ家の出身で、西フランク王シャルル3世の従兄弟の孫にあたり、メス司教アダルベロンの甥である。アダルベローとも呼ばれる。西フランク王家のカロリング家と、東方のオットー朝との間に立ち、のちのカペー朝成立に大きな役割を果たした人物として知られる。
父はアルデンヌ地方の伯でゴルツェ修道院の俗人修道院長でもあったゴズラン、母はメスのオダである。母方の祖母はオットー朝の祖の娘にあたるとされ、父母を通じてカロリング家とザクセンのオットー家の双方の血を引いていた。アルデンヌで生まれ、叔父のメス司教が支配するゴルツェ修道院で育った。ゴルツェは当時ロタリンギアにおける修道院改革の拠点で、アダルベロンは改革の中心人物ゴルツェのヨハネスの弟子であった。最初はメスの参事会員となり、969年、40歳ほどのときに国王ロテールの命でオダルリクの後を継ぎ、ランス大司教となった。ランスはフランス王国で最も有力な大司教区で、10の司教区を従えていた。ここ30年ほどは、ロタリンギア出身の聖職者が大司教を務める例が続いていた。
大司教となったアダルベロンは、大聖堂の拡張と改修を行い、聖堂にステンドグラスを設けた。教会参事会員には規律を守らせ、それまで各自の家で私的に暮らしていた彼らに共同生活を求めたという。修道院改革にも熱心で、サン・レミ修道院の改革を進めてサン・ティモテ修道院と合わせて教皇から特権を得たほか、サン・ティエリ修道院の再興のため修道士を送り、971年には要塞化したムゾン修道院を創設して聖アルヌールの聖遺物を安置した。翌年には教会会議を開き、司牧の規律や典礼に関する教会法を読み直させた。学問の振興にも力を注ぎ、972年に当代屈指の学者オーリヤックのジェルベールを招いて司教座学校の教師とした。のちにジェルベールは教皇シルウェステル2世となる。ランスの名声は高まり、984年ごろにはユーグ・カペーが息子ロベールを学ばせるために送ったほどであった。
政治の面では、ロテールとその子ルイ5世のカロリング家と、神聖ローマ皇帝オットー2世・オットー3世との争いにあたって、両者の和解を取り持った。しかしロテールがロタリンギアの奪回を試みて攻撃を重ねると、アダルベロンは王から離れて皇帝側に近づいたともいわれる。ロテールと、続いてその子から反逆の罪に問われ、986年から987年にかけてコンピエーニュに召喚されて裁かれることになったが、二人の王が相次いで亡くなったため難を逃れた。
ルイ5世の不慮の死でカロリングの血統が途絶えると、聖俗諸侯の会議でユーグ・カペーが次の王に推された。このときアダルベロンは、国内の宗教界で権威あるランス大司教として意見をまとめたとされ、「王位は血統ではなく、業績や武勇、品格で選ばれるべきだ」としてカペー側に立った。987年7月3日、アダルベロンはユーグに戴冠と聖別を行い、同年12月30日にはその子ロベールにも共同統治者として戴冠した。翌988年に退任し、後任にはジェルベールを推したが、ユーグが任じたのはロテールの庶子アルヌールであった。アダルベロンは989年に没した。ユーグが帝国に従う存在になると考えたのは誤算であったともいわれるが、カペー家が王位に就く道を開いた主な立役者と評される。
同じ年に亡くなった人物
- 小バルダス・フォカス (989年)
同じ地域に関係する人物
- アウグスト・マッケ (1914年没)
- レオン・ブルジョワ (1925年没)
- ロベール・ジョンケ (2008年没)
- ティボー3世 (ブロワ伯) (1089年没)
- ニコラ・ド・グリニー (1703年没)