HISTORICAL PERSON · 1089年没

ティボー3世 (ブロワ伯)

ブロワ伯。アンジュー伯ジョフロワ・マルテルに捕らえられ、解放と引き換えにトゥレーヌ伯領を譲渡し、以後ブロワ家の拠点をシャンパーニュに移した。

生涯
1089年没
死亡地
フランス共和国(マルヌ県 / エペルネー)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(マルヌ県)

伝記

ティボー3世は、ブロワ伯ウード2世とエルマンガルド・ドーヴェルニュの子である。生年は1012年とも1019年ごろともされる。1037年に父が死去すると、ブロワ、トゥール、シャルトル、シャトーダン、サンセールを継承し、シャンパーニュ地方のシャトー・ティエリ、プロヴァン、サン・フロランタンも受け継いだ。一方、弟エティエンヌ2世にはモー、トロワ、ヴィトリ・ル・フランソワが渡った。

統治の初めには、父の代から続くアンジュー伯家との戦争を引き継いだ。1037年ごろにはボーヴェを失い、1039年からは南方から攻撃を受け、シノン、モンバゾン、サン・テニャンを奪われた。1044年、アンジュー伯ジョフロワ・マルテルに包囲されたトゥールを救おうとして、近郊のヌイで戦った。しかし敗れて捕虜となり、解放と引き換えにトゥレーヌの支配を手放した。フランス王アンリ1世に臣従を拒んでいたこともあり、アンジュー家と結んだ王はその地位を奪った。西方での足場が弱まるなか、ブロワ家はシャンパーニュへ重点を移していった。最初の妻はメーヌ伯エルベール1世の娘ガルサンドであったが、1048年に離婚した。ガルサンドはその後、アルベルト・アッツォ2世・デステと再婚した。

1054年には、フランス王と会見するためイヴォアに来ていた神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世へ臣従の礼を取った。皇帝に近づくことによって力を増し、自らを宮中伯と称するようになった。1061年より前には、ヴァロワ伯ラウール4世とアデライード・ド・バル・シュル・オーブの娘アデルと再婚していた。アデルはバル・シュル・オーブ女伯であり、この婚姻もティボーの勢力を強めた。息子エティエンヌ2世の母はガルサンドとも、アデルともされる。ガルサンドとの離婚が、子を得られなかったためだとする見方もあり、母親については一つに定まっていない。

1063年から1065年にかけて、後見していた甥のトロワ伯ウードがティボーに反抗した。ティボーはこの争いを利用してシャンパーニュでの支配を拡大した。ウードはウィリアム征服王の軍に加わり、イングランド征服へ向かったため、その不在もティボーの勢力増大に役立った。1066年からはトロワ、モー、ヴィトリも治め、ブロワとシャンパーニュにまたがる家の基盤を築いた。修道院の保護者でもあり、修道院改革を助けた。1074年以後は息子エティエンヌ2世にブロワ、シャトーダン、シャルトルの管理を任せた。

1089年にエペルネーで没した。ブロワ伯としての在位期間は、合計52年間に及んだ。フランス王フィリップ1世はブロワとシャンパーニュを分け、ティボーの息子たちに継がせた。エティエンヌ2世はブロワ伯となり、アデルとの子にはシャロンの司教フィリップ、トロワ伯ウード5世、シャンパーニュ伯ユーグがいた。娘アヴォワーズはトレギエ伯エティエンヌ・ド・パンティエーヴルと結婚し、初代リッチモンド伯アランの母となった。孫のエティエンヌは1135年にイングランド王位を得た。また孫ティボーは、シャンパーニュへの定着を示すため、ラニー・シュル・マルヌのサン・ピエール修道院に葬られた。

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