伝記
レオン・ヴィクトル・オーギュスト・ブルジョワは、1851年5月21日に生まれ、1925年9月29日に没した、第三共和政時代のフランスの政治家である。閣僚評議会議長(首相)を1期務め、フランス議会の両院の議長を務めた数少ない政治家の一人である。連帯主義の提唱者、理論家とみなされる。
パリで、時計職人の父の子として生まれた。質素で共和主義の家庭で育ち、シャルルマーニュ校で学んで、パリ大学法学部に進んだ。1870年にはパリ防衛に志願した。21歳で法学士の資格を取り、哲学や芸術に関心を持ち、特にサンスクリット語に熱中した。のちにヴィルジニー・マルグリット・セリエと結婚し、二人の子をもうけた。1876年に弁護士より行政の道を選び、公共事業省の下級官僚となった。その後、共和派の復帰に伴って、ランスの郡長に任命され、1882年の夏にはフリーメイソンの支部に入会した。1882年にタルヌ県の、1885年にオート=ガロンヌ県の知事を経験して、パリに戻り内務省に入った。タルヌ県では、教科書をめぐって対立するカトリック教会と向き合い、鉱山労働者のストライキでは武力による介入に反対し、対話と法を好んで調停役を務めた。1887年11月にグレヴィ大統領が辞任した危機の際には、警察長官を務めた。
翌年、マルヌ県で選出されて代議院議員になり、ブーランジェ将軍に反対する議員の一人として、急進左派に加わった。1888年から翌年まで内務大臣の秘書官を務め、1889年にランスから選出されて再び議員となった。1890年からのフレシネ内閣では公共教育大臣を務め、同年に中等教育の改革を断行した。1892年のルーベ内閣でも公共教育大臣に留任し、同年末に成立したリボ内閣では、パナマ運河疑獄が起こる中で司法大臣を務め、パナマ事件での起訴を積極的に進めた。証拠を得るため、被告の一人の妻に不当な圧力をかけたと疑われ、1893年3月に一度辞任したが、すぐに再就任した。
1895年11月、急進派の初めての単独内閣を組閣したが、元老院が金銭法案の可決を長期間拒否して憲政危機が起こった。彼の内閣は、これを元老院による憲法違反行為だと主張し、世論を味方につけて押し通そうとしたが、世論が無関心だったため失敗し、組閣から6か月で辞任を余儀なくされた。1898年のブリッソン内閣で再び教育大臣を務め、大人向けの初等教育コースを整備した。翌1899年のハーグ平和会議ではフランス代表を務め、1903年には常設仲裁裁判所の判事に任命された。1902年と1903年の2度、代議院議長に選出された。1905年に元老院議員になり、1906年5月にはサリアン内閣の外務大臣として、アルヘシラス会議におけるフランスの立場を決定した。1914年に外務大臣を、1917年に労働・社会保障大臣を務めた。
第一次世界大戦後は、国際連盟の創設に加わり、初期の議長を務め、1920年にノーベル平和賞を受賞した。パリ講和会議の国際連盟委員会では、日本代表が提示した人種差別撤廃案に強く賛同した。同1920年1月、元老院議長に選出された。1925年にマルヌ県のオジェ城で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- オットー・ルンマー (1925年没)
- ジョヴァンニ・バッティスタ・グラッシ (1925年没)
- Jaap Eden (1925年没)
- ムーラーイ・アフマド・アル=ライスーニー (1925年没)
- フリードリヒ・エーベルト (1925年没)
同じ地域に関係する人物
- ギヨーム・ド・マショー (1377年没)
- コンスタンス・ド・フランス (1128-1176) (1177年没)
- ジャン・ヤンヌ (2003年没)
- ルイジ・ムッソ (1958年没)
- ケルン大司教ブルーノ (965年没)