伝記
ダレイオス3世は、アケメネス朝ペルシア帝国の最後の王で、紀元前336年から紀元前330年7月ごろまで在位した。マケドニア王アレクサンドロス3世に敗れたペルシア王として知られる。生まれは紀元前380年ごろとされる。即位前の名はアルタシャータといい、これはバビロンから出土した天文日誌で確認される。ローマの歴史家ユスティヌスだけは、本名をコドマンヌスと伝えている。ダレイオスの名は、即位にあたって名乗ったものである。
出自については、ダレイオス2世の孫にあたるアルサメスと、その妻で王女とされるシシュガンビスの間に生まれた傍系の王族と考えられるが、ストラボンは王族ではなかったと述べる。彼が頭角を現したのは、紀元前350年代のアルタクセルクセス3世によるカドゥシオイ人への遠征で、戦いの中で敵の戦士を一騎打ちで倒したと伝えられる。その勇敢さでアルメニア総督に任じられ、のちには王の「郵便制度」を任される高位に就いたと考えられている。ギリシアの著述家は、彼を王の特使であり奴隷だったと記すが、これは古代ペルシア語のバンダカ、つまり忠実な従者という語をギリシア語に訳したものと見られている。
紀元前336年、アルタクセルクセス4世が宦官で大臣のバゴアスによって家族とともに毒殺され、王家の直系は事実上絶えた。そこで、友人であったバゴアスの擁立により、傍系のアルタシャータがダレイオス3世として王位を継いだ。バゴアスは彼の毒殺をも企てたが、陰謀は露見し、彼はバゴアスに毒をあおって死ぬよう命じたとされる。ペルシア側に彼の史料はなく、この治世は、ほぼギリシアの歴史家の報告だけで知られている。
紀元前334年春、アレクサンドロス3世がペルシア帝国へ侵攻した。グラニコス川の戦いでペルシア軍は敗れ、ダレイオスの娘婿ミトリダテスも戦死した。紀元前333年11月ごろ、彼は自ら軍を率いてキリキアへ進み、イッソス近くのピナロス川で両軍が激突した。数では優勢だったが、ダレイオスは戦いの最中に戦場から逃亡し、ペルシア軍も敗走した。母シシュガンビスや王妃、子どもたちはアレクサンドロスに捕らえられた。彼は家族の解放を何度も求めたが、臣従しない限りは認められなかった。一方で、アレクサンドロスが家族を寛大に遇したことに驚き、称えたともいう。紀元前331年10月1日、再び大軍を集めてガウガメラでマケドニア軍を迎え撃ったが、ここでも敗れて再び戦場から逃げた。バビロンやスーサ、ペルセポリスなどが次々に陥落するなか、彼はエクバタナに逃れ、さらにバクトリアへ向かった。
紀元前330年半ば、逃亡中にバクトリア総督ベッソスや大臣らに裏切られて捕らえられ、荷車で連行される途中の7月ごろ、アレクサンドロスが迫ると知ったベッソスらにパルティアで刺殺された。アレクサンドロスは彼のために王にふさわしい葬儀を営み、遺体はペルシア本土の王墓に葬られたが、正確な場所は不明である。娘のスタテイラとドリュペティスは、のちにそれぞれアレクサンドロスとヘファイスティオンに嫁いだ。ベッソスは、アルタクセルクセス5世を名乗って王を自称したが、まもなく処刑され、約220年続いた帝国は滅んだ。イランの民族伝承『シャー・ナーメ』の最後の王ダーラーが彼に相当するとされ、同様に大臣らに殺されたと語られる。
同じ年に亡くなった人物
- パルメニオン (紀元前330年没)
- スタテイラ1世 (紀元前330)
- ティモレオン (紀元前330年没)
- フィロタス (紀元前330年没)
- ニカノル (パルメニオンの子) (紀元前330年没)
同じ地域に関係する人物
- アルスラーン・イスラーイール・イブン・セルジューク (1032年没)
- サブク・ティギーン (990年代没)
- エウテュデモス2世 (紀元前200)
- アンティマコス1世 (紀元前160)
- デメトリオス2世 (紀元前160)